diary

“Quem deseja ver o arco-íris, precisa aprender a gostar da chuva.” @pyi46

いじめと自殺と加虐心。

 

※滅茶苦茶重いタイトルになってしまったけど、内容はそこまで重くはないです

 

 

僕には好き嫌いがない。

好き嫌いなくなんでも食べられることは、子供だったら親に偉いねと褒められるようなことかもしれない。だけど別に僕が嫌いなものがない理由は偉くもなんともない。

僕の自論だけど、感覚は特殊な例を除いてほぼ全ての人が共通して持っているものだと思っている。

ほぼ全ての人が殴られれば痛いと感じるし、南極に行けば寒いと感じるし、腐敗臭を嗅げば嫌な臭いだと感じると思っている。

つまり、例えばここにトマトがあったとして、このトマトを美味しいと感じる感覚を持ってる人がいるということは、その感覚は僕も持ちうる感覚だと僕は考える。

もし食べられないものがあると言うことは、それを美味しいと感じる感覚を僕も持っているのにそれに気が付けてないってことだと考えてしまう。それは損した感じがする。

だから僕は好き嫌いがない。いうなればただの貧乏性です。

 

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僕が好きなラジオ番組の「高橋みなみ朝井リョウヨブンのこと」の中で最近新しく『私から出た加虐心』というコーナーが始まった。

加虐心とは「苛めてやりたい、という感情。 痛めつけるなどして苦しめてみたいと感じる心情などを意味する表現」Google先生より。

このコーナーが始まるにあたり、何故こんなテーマでメールを募集したのかを朝井リョウが語っていた。

ざっくりと要約すると

「加虐心は自分に近しい感情であり、自分の中に誰もが潜めている気持ちであることに自覚的であるべきである」

「「優勢思想」が反転する瞬間は誰でも持っている」

「テレビの識者やメディアはこーゆー事件はよくないとかこんな考え方はよくないと言うけど、その思想は全員持ってる」

 

中卒の僕が彼の言っていることを全て把握できているとは思わないけど、僕も聞いていて確かになと思った。

ニュースでも学校でも、「犯罪はよくない」「いじめはよくない」

と伝えられ、教えられる。

だけどこの教え方は危ないんじゃないかと僕は思う。

僕も、これを読んでいるあなたも、犯罪を犯す可能性も、いじめに加担する可能性も秘めている。犯罪者は特別な人間じゃない。全ての人が犯罪者になりうる可能性を秘めている中で、それを律することが出来ている人が犯罪を犯さずに生活を送っている。

 

開き直りや反発心は犯罪を助長する原因の一つじゃないかなと思う。

「犯罪はよくない」「いじめはよくない」

そう教えられると、犯罪を犯したくなる衝動にかられた時に「自分はよくないことをしてしまう人間なんだ」と考えてしまう。

そもそもが人間は残虐性を持った生き物だと思う。

人類が「平和」を謳うのは、平和を謳わなければ平和を保てないからだ。

「自分はよくないことをしてしまう人間だ」と自覚した時に、それを律することが出来る人はいいけど、そうじゃない人は「犯罪はよくない」という教えに反発しようとする、或いは開き直る。それが犯罪を助長してしまうんじゃないかと僕は思う。

或いは「よくないと言われていることが出来る俺カッコいい」と、自分は特別な存在だと勘違いする。

誰も出来ないことをやれる自分は凄いと。

だけど本来はそうじゃない。全ての人が持ってるけど抑えることが出来てるものを我慢が出来ない弱い人間が犯罪を犯し、人を傷つける。

 

最近はSNSを使って人を傷つけ、自殺に追い込む事件も目にするようになった。

時代は変わっていく。SNSはなんでも言っていい場所という時代はもう過ぎた。

それに気が付けない一部の人間が、「思ったことをズバズバ言える俺って凄い」と勘違いし、平気で人を傷つける。

 

暴論を言うと、本来は(人を傷つけてしまうような内容の)愚痴や文句はツイートするべきじゃないと思う。僕も時々文句じみたツイートをしてしまうけど、それらは全て人の弱さだ。多くの人が思っていても書かないことを書いてしまう。本来はするべきじゃないことをしてしまう。それは「犯罪」「いじめ」をしているのと同じことだと思う。

 

 

冒頭で僕は感覚は全ての人が共通で持ち合わせているものだと書いた。

それは加虐心もそうだけど、逆に言えば弱い心もそうだ。

自殺をした人と同じ心を全ての人が持っている。

もし自殺をした人と同じ状況になっていたら、僕も貴方も自殺という選択肢を選んだかもしれない。

 

僕は以前に「自殺の是非について論じるつもりはない」的なツイートをした。

僕は皆に比べて人生を経験してきているからか、それとも底辺を生きているからなのか、原因はなんとも言えないけど、自殺をした知人が多い。

麻雀仲間、ネットで知り合った人、昔の職場の先輩、知人の知人。

 

今回の趣旨とはかなりずれるけどいい機会だから少し吐き出すと、自ら死を選ぶ人は明日も生きていこうと考える人とは思考がかなり違っていると感じる。

僕の知人の自殺方法は、睡眠薬、首つり、身投げもあるけど、自らの身体に火をつけたり、切腹をした人もいる。

もし僕が死ぬとしたら、なるべく辛くない方法を選ぶ。この思考がすでに違うんだなと思う。腹を切ったら痛いだろうなとか、燃えながら死ぬのは辛いだろうなとか、本気で死のうとしてる人はそんな事は考えない。

 

逆に言うと、自殺をする人は精神的にそこまで追い込まれているということだ。

自ら死を選んだ人に対して、明日も生きていこうとしてる人が自殺の是非を論じるのは無意味だと僕は思ってしまう。自分の身体に火をつけてまで死のうとした人の気持ちを、生きようとしてる人間が分かるわけがないと考えてしまう。だから僕は自殺の是非を論じるつもりはないとツイートした。

 

そして、その人達と同じ心を誰もが持っている。

この人になら言っていいとか、ここまでなら言っていいとか、そんな物差しはどこにもない。

自殺の是非は論じるつもりはないけど、そうならない為にどうするのかを考えるのはとても大切なことだ。

 

僕も、これを読んでいるあなたも、加虐心も持っているし、弱い心も持っている。

全ての人がそれを認めて受け入れて生きることが出来ればいいなと思う。

そうすれば世界は平和になるのかもしれないなと思う。

別に世界平和なんて望んでないけど。

 

 

明日も飛鳥ちゃんが笑顔でいられますように(急な方向転換)(遅すぎて間に合わない)