diary

“Quem deseja ver o arco-íris, precisa aprender a gostar da chuva.” @pyi46

ここにはないもの ここにあるもの

 

ここにはないものが披露されてから3日。

アーカイブは今のところ上がる雰囲気はないけれど、幸いなことに僕は完全記憶能力を持っているので披露されてから今日まで脳内で何回聞いたのか分からないくらい再生してきた。

聞くたびに毎回切なくなって、聞けば聞くほど好きになって、曲の良さに気づいて。

 

今ではこの曲は僕の中で乃木坂46の全楽曲の中で一番好きな楽曲になってる。

これは推し補正とか卒業シングルだからとかを抜きにしても、純粋に今まで聞いてきた楽曲の中で一番好きで、多分この先このランキングが変わることはないと思う。

 

不動の一位になったのには明確な理由がある。

 

僕は秋元康プロデュースのアイドルの楽曲は、楽曲の良さに楽曲の持つ背景の物語が乗っかって魅力が増してると思ってる。

純粋な楽曲の良さ、歌詞の良さだけじゃない。その曲のセンター、初選抜、出来事。色々な要素をファンは想いとして乗せて、曲の魅力に肉付けする。

そんなアーティストは他にはいない。いるかもしれないけど僕はあまり知らない。

 

例えばドラマの主題歌がドラマのヒットに合わせて売れることがある。

乃木坂はそのドラマも乃木坂の中で完結させている。

その主題歌をアーティストが歌う時にドラマのシーンが浮かぶかもしれない。

だけど乃木坂の場合は、そのドラマのシーンすら本人たちが登場人物だ。

だから尚更に曲に物語が生まれて、思い入れが出来る。

 

この物語を見せてくれるのが、僕が秋元康Pのアイドルを好きな理由の一つでもある。

 

乃木坂の楽曲には沢山の「僕」が存在する。

サヨナラの意味の「僕」はサヨナラを告げる「君」を送る僕だった。

裸足でSummerの「僕」は行動が予測できない「君」に振り回される僕。

やさしさとはの「僕」はやさしさの答えを出せずに「君」に声をかけられなかった。

 

だけどそれぞれの僕はそれぞれの楽曲に出てくる僕であって、その僕が結びつくことはなかった。

ただ中にはこの曲の僕はこの曲の僕と同じかもしれないとか、似た部分があるとか、楽曲と楽曲を結び付けて考えるオタクもいたと思う。僕もその一人。

僕は勝手に「失いたくないから」の僕は「やさしさとは」の僕と同一人物で同じ世界を生きていると思っていて、以前それをブログにも書いたことがある。

 

だけどこれは勝手に妄想として遊んでいただけで、別に答えを求めていたわけじゃない。

 

ちょっと記憶が曖昧なんだけど確か乃木坂三昧に秋元康が出た時だと思う。

康は「乃木坂における「僕」が1人で動いてる気がする」と言っていた。

 

この時に、それを楽曲に意識して入れ込んできているかどうかは別として、

康の中でも乃木坂における「僕」に対しての認識は確実にあることが分かった。

 

 

そしてここからが僕が「ここにはないもの」を不動の一位として好きな理由になってくるんだけど、この曲は歌詞を見れば分かる通り過去の楽曲のタイトルやフレーズが歌詞に入り込んでいる。これは偶然ではなくて、秋元康が意図して入れてると考えていいと思う。

この曲の「僕」は齋藤飛鳥であることに間違いはないと思う。

だけどこの曲に出てくる僕は飛鳥ちゃんってだけじゃない。

 

この曲の僕は「裸足でSummer」の僕であり、「羽根の記憶」の僕であり、「シンクロニシティ」の僕であり、「サヨナラの意味」の僕だ。

ごめふぃんの僕も、なんぞらの僕もいるかもしれない。

 

もちろんどこまでの意図があって歌詞にいれたかは分からない。ただの言葉遊びだけなのかもしれない。

ただ一つ言えることは、今まではただのオタクの妄想でしかなかった楽曲と楽曲を繋ぐ物語を、作り手である秋元康が作品として提示してきてくれた。

今までは乃木坂の世界にバラバラに存在していた物語を、作り手によって一つの世界線として見せてくれた。

こんなことは今までになかったし、割と凄いことだと思う。

何故ならこの曲の「僕」が今までの乃木坂の「僕」だとしたら、それは乃木坂の僕が乃木坂を離れることを意味するから。

11年間乃木坂の中で育ってきた「僕」の旅立ちを意味する曲だから。

 

飛鳥ちゃんが卒業を発表した日にこんなツイートをした。

 

 

これについて書こうとするとブログ一つ分になるので端折るけど、僕の中で飛鳥ちゃんは乃木坂そのものって印象がある。

一緒にするのは烏滸がましいことは重々承知の上で言わせてもらうと秋元康の中にも少なからず同じような印象があったのかなと。だから齋藤飛鳥の卒業に「乃木坂の僕」の旅立ちを重ねたのかなと思う。

 

とにかく、僕は楽曲の持つ物語を曲の魅力の一つとして考えてるから、今までの楽曲の中で一番物語が詰め込まれてる『ここにはないもの』は僕の好きな乃木坂そのもので。

だから僕はこの曲を全ての楽曲の中で一番好きだし、この先も変わることはないと思う。

 

ーーーー

 

前置きはこれくらいにして(前置きがなげぇ)、僕が『ここにはないもの』の好きなところを語りたい。

 

この曲は齋藤飛鳥の11年を語るには言葉が足りないと思わせるくらいにAメロから言葉が詰め込まれている。

だけどそれだけでは語りつくせない想いを過去の楽曲の歌詞を使うことで伝えてきている。

 

例えば

ホントの空の色を きっと僕はまだ知らない

から『何度目の青空か』が思い浮かべば、「この次の青空はいつなのかわからないだから今空見上げ何かを始めるんだ今日出来ることを」という前向きな決心が感じ取れるし、

 

例えば

「ごめんね これから 出て行かせてくれ」

から『ごめんねFingers crossed』が思い浮かべば、「ごめんね」のひとことの中に「君の幸せをずっと祈ってるよ」という君に向けた想いを感じ取れる。

 

歌詞の一言一言に過去の楽曲の歌詞を使うことで、その過去の楽曲を通しての「僕」の経験が背景に思い浮かぶ。

 

 

そして11年を通しての経験からくる立場の違いも感じ取れる。

 

サヨナラの意味の時は「僕」は「君」を見送る側だった。

そして『ここにはないもの』では「僕」は「君」に見送られる側になった。

だから僕は君の気持ちを痛い程よく分かってる。

 

だから「微笑む瞳のその奥に君は瞬きさえ我慢しながら涙を隠してる」からは、君がどんな感情で微笑んで、僕にばれないように涙を我慢してるのかも分かるってるよって気持ちが伝わってくる。

 

サヨナラの意味の時には残る立場だった。

だから「僕たちの未来」は乃木坂で見る未来だった。

だけど『ここにはないもの』は「まだ見ぬ世界の先」に未来を見ている。

 

シンクロニシティの時は「遠くの幸せ」を願う立場だった。

『ここにはないもの』ではここにある幸せより「遠くのしあわせ」を掴むために行こうとしている。

 

 

 

過去使われた歌詞の一言一言から、その楽曲の物語が思い浮かぶし、それを経験して成長してきた僕の姿が思い浮かぶ。

 

そして後ろ髪を引かれたって君に甘えたりはしないようにいつも前を向こう」からは見送られる立場になった僕の、サヨナラの意味の君のように前を向いて、振り向かず、後ろ手でピースしながら歩き出す姿が思い浮かぶ。

 

こんなにも物語が浮かぶ楽曲は今までになかった。

 

歌詞やタイトルをリンクさせてくれたから、歌詞が一字一句同じじゃなくても過去の楽曲をイメージしてるのかなと思うことも出来る。

 

例えばCメロの

「でも空がどれくらい広いとかどれくらい高いかは見上げて初めてわかる」

からは羽根の記憶の「空は何処までもある持て余すくらいに鳥たちは自分から籠に入らない」が思い浮かぶ。

 

秋元康は楽曲の目線へのこだわりを大事にしてる人だと思ってる。その曲が誰目線の曲なのか。センター目線なのか、ファン目線なのか、グループ目線なのか。

 

『ここにはないもの』はここまで書いてきたように飛鳥ちゃん目線であり、乃木坂の僕目線だ。

だけどこのCメロはそうじゃない。

何度目の青空か、羽根の記憶。

康は時々、歌詞の中に康目線のメッセージを紛れさせる時がある。

Cメロは康目線の歌詞だ。その歌詞が羽根の記憶とリンクした。

だから僕にはCメロは「まだ眠る可能性無限大だ」というメッセージに聞こえた。

 

 

色々と書いてきたけど、純粋に歌詞も好きだ。

「寂しさよ 語りかけるな心が折れそうになる人間は誰もみんな孤独に弱い生き物だ」

この曲の僕はずっと「つよがり」だ。

これも乃木坂の「僕」だ。

寂しさも、悲しみも、決して表には出さない。

サヨナラの意味の僕も、サヨナラ Stay with meの僕も、ありがちな恋愛の僕も。

別れ際いつも強がっている。

 

「悲しみよ 泣き出すなよ強がりとバしてしまう」

『ここにはないもの』の僕は自分のつよがりを認めている。

いつもは出さない僕の本音が聞こえた気がして、そこも好きだ。

 

 

色々書いてきたけど、多分まだ全然書き足りないし、伝えきれない語彙力の無さが情けないけど、とにかく本当に僕は『ここにはないもの』が好きです。

 

 

 

 

そして最後に。

乃木坂の僕が旅立ってしまうということは、今後残されたメンバーはどうなるのか。

全く新しい乃木坂として活動していくのか。

僕はそうではないと思う。

 

設楽さんが飛鳥ちゃんの卒業を受けてラジオでこんなことを言っていた。

「歌舞伎とかの伝統文化も名前を襲名して続けていく」

 

確かにな、その通りだなと思った。

 

ここ最近の表題曲の「僕」は今までの乃木坂の「僕」とは少し違う印象があったし、そう感じるファンも多かったと思う。

乃木坂が変わっていく中で、乃木坂の「僕」も変わっていく。

じゃぁ今までの僕がいなくなるのかと言われたらそうじゃない。

今までの僕は引き継いで、その上に新しい僕も連れて行く。

 

物語は続いて行く。途切れることはない。

 

これから乃木坂ちゃんがシンクロニシティを披露するたびに、「遠くの幸せ願う」たびに、それは『ここにはないもの』で旅立った僕の「遠くの幸せ」を願ってるんだろうなと思える。それって凄く素敵だなって思わない?僕は素敵だと思う。