diary

“Quem deseja ver o arco-íris, precisa aprender a gostar da chuva.” @pyi46

僕の思い込み

 

ああ、まただな。


齋藤飛鳥卒業コンサート

当たり前だけど殆どの曲のセンターを務めた飛鳥ちゃん、曲終わりにアップで抜かれる回数も多い。

その時に、とても優しく微笑んでいて、だけど寂しさがにじんでいるような。そんな表情を浮かべていることが見ていて何度かあった。

もっと具体的に言えば曲終わりのアップでは曲に合わせた表情を作っているのに、暗転直前に寂しさが溢れてしまうような、そんな風に感じ取れた。

 

その表情はライブが2日目、終盤に近付くにつれて多くなっていった。
最後のライブ、寂しさを感じてるのかなとも思った。だけどそれだけじゃないと思うようになった。

そう思ったきっかけは2日目のSing Out!だった。
初日のシングアウトのソロダンス。凄い気迫が伝わってきた。

乃木坂で培ったダンスの経験、今までの集大成として全てを出し切って踊っている、そんな風に見えた。

 

だけど2日目は違った。

最後の時を楽しんでいるような、名残を惜しんでいるような、余韻を味わっているような。

恋人同士の別れ際のような、故郷を離れる前に景色を眺めるような。


そんな、曲との最後を感じてるように見えた。
そのシングアウトの2日目のソロダンスを見た時に、飛鳥ちゃんのあの表情は、一曲一曲最後を噛みしめていたのかもなと思うようになった。

 

 

 

卒業発表をしてから、飛鳥ちゃんはよく「最後」と言うようになった。

 

これをするのも最後だから。
こうやって会うのも最後だから。

 

コンサートの中でも、何回か「最後」を口にしていた。

最後を実感させることで、突然の別れの寂しさはなくなる。
そんな飛鳥ちゃんなりの優しさの側面もあるのかなと思っていた。

だけどこれは自分自身にも言っていたのかもしれない。
自分自身にもちゃんと最後を実感させることで、寂しさが語り掛けて、心が折れそうにならないように。

 

そんな飛鳥ちゃんだから、言葉には出さなくても、この曲を踊るのはこれが最後、この曲を歌うのはこれが最後。きっと心の中ではそう思っていたんだと思う。

その心の声が曲終わり、暗転直前に漏れ出た時に、あの寂し気な表情になっていたのかな。そう思うようになった。

 

 

齋藤飛鳥卒業コンサート

だけど飛鳥ちゃんは終始「乃木坂46のライブ」にこだわっていた。

 

「乃木坂としては嬉しいけど、卒コンって名前がつくとどっちとも言えない」

齋藤飛鳥の卒コンだけど、今の乃木坂的に私がガツガツしすぎててもそうゆうのあんま好きじゃないなと思った」

「どうやったらこの人たちの未来に繋がりつつ、私もいい旅立ちを出来るのかをすり合わせるのが難しくて」

「まんべんなく皆をしっかりと出してあげたいし、ちゃんと全員と目が合うようにしたい」

 

最後まで飛鳥ちゃんらしいなと思った。

 


僕が数ある飛鳥ちゃんの好きなエピソードの一つに、ラジオで言っていた虹のエピソードがある。

 

『Rainbow』(虹)という言葉が出てくるんですけど、私、『虹』があまり好きではないんです…過大評価されすぎだなと思っていて。
みんな虹が出ると『すごい』って写真を撮るじゃないですか?
 私もキレイだとは思いますけど、評価受けすぎで。だったらもっと『雨』が評価されるべきじゃないですか

 

僕はこの飛鳥ちゃんの言葉は、乃木坂で過ごしてきたからこそ出来た価値観だと思う。


アンダーの悔しさ、選抜の嬉しさ、福神の戸惑い、センターの不安。全てを経験してきた飛鳥ちゃんだからこその価値観だと思う。

 

乃木坂46は決して虹だけがもてはやされるグループではない。


全員の良さを引き出すことで、結果的に何処かに虹がかかることがあるかもしれない。

だけど、虹は結果であって、そこには確かに雨があったことを忘れてはいけない。

齋藤飛鳥卒業コンサートだとしても、その考えは変わらない。

私は虹だ虹だともてはやされるのは得意じゃない。そんな気持ちが伝わってくるような気がした。

 

 

 

僕はこのライブには、大きく三つのテーマがあるように見えた。

一つのメインテーマと、二つの裏テーマ。


メインテーマは「乃木坂46のLIVE」を見せること。

 

前述したように、そして飛鳥ちゃんも終始語っていたように、齋藤飛鳥の冠がついていたとしても、一番大切なのはこれからの乃木坂。

その想いが飛鳥ちゃんがステージにいない中での、これからの乃木坂での披露となったキャラバンは眠らないや、或いは一つ前のブログに書いた、最後のここにはないもので羽根を作らなかったところに繋がったのかもしれない。

どこまでの意図があったのかは分からないけど、大きなテーマとして揺るがずにあったと思う。

 

 


少し気になって「卒業コンサート」について調べてみた。
だけどGoogleにもWikipediaにも、「卒業コンサート」そのものの意味を書いてるページは見つからなかった。

卒業コンサートはアイドルの中においても特殊な文化かもしれない。

例えばこれで芸能界からも引退するのであれば、最後の姿を見せるのはある意味必要なことなのかもしれない。

だけどこれからも芸能界で活動するつもりなら、ファンの前に姿を見せるつもりなら、誰のために、何のために盛大にコンサートを開く必要があるのか。

勿論区切りとして、今まで応援してくれたファンに向けて最後の姿を見せることが大切なのは分かる。

だけどそれを「卒業コンサート」と銘打ってまで、メンバーを巻き込んでまで行うほどのことなのか。そんな遠慮、申し訳なさが垣間見えるのも飛鳥ちゃんらしくて好きだなと思った。

 

 

橋本奈々未と同じように、最敬礼から始まった齋藤飛鳥卒業コンサート


「始まり」をきっと大切な形として見せてくれた飛鳥ちゃんが、「終わり」をどんな風に見せてくれるのか。僕はこの終わり方が凄く大切だと思った。凄く大切に考えて決めていると思った。

 

ななみんは、後ろ手でピースしながら去っていった。芸能活動もしないことを公言していた彼女は、文字通りそのままファンの前から去っていった。

 

そして飛鳥ちゃんは、天使ちゃんとなって登っていって、一番最後、消える間際に「またね」と言った。

 

「サヨナラ」でも「じゃあね」でもなく、「またね」

 

また会おうね。
ここが私の終わりじゃないよ、また会えるよ。

 

その後アンコールが鳴りやまない会場にまた出てきちゃったけど、飛鳥ちゃんが最後に選んだ言葉は「またね」だった。勝手だけど、僕はそれが嬉しかった。

 

 


ではコンサートにはどんな意味を込めたのか。

 

僕は「卒業」と「継承」を裏テーマにしてるのかなと思った。

 


継承を色濃く感じたのは『他の星から』
2日間違うセトリの中で、2日共にやった数少ない楽曲。

 

初日の披露、背中合わせでの曲終わり、顔を合わせられないさくちゃんの後姿に泣いてる事をすぐに察知して頭を撫でる飛鳥ちゃんは我が子を愛でる母のようで。

だけど振り返ったさくちゃんを飛鳥ちゃんはすぐに抱きしめずに、一歩引いて両手を前に出して。その手にさくちゃんが手を合わせた時、ああ、バトンタッチをしたんだなと思った。

そして2日目の他の星からでは、初日に泣いて背中を見せてたさくちゃんが、強い表情をして振り返った。飛鳥ちゃんはその表情を見てさくちゃんを抱きしめた。

これが飛鳥ちゃんの優しさなんだなと思った。

 

最後のスピーチの「恩送り」も、まさに継承の一つだなと思った。飛鳥ちゃんも「私たちも歌で歌ってるな」と言っていて。

歌を受け継いで歌い繋いでいく。

これは他のアーティストにはない特別で素敵な文化だなと思う。

 

そんな想いがアンダーとのAgainstやHard to sayの初披露、或いはオーケストラでのインフルシンクロに繋がってるのかもしれないなと思う。


インフルやシンクロ等の飛鳥ちゃんがセンターではない曲をセンターで披露していたのも、ある意味では恩送りに繋がってるのかもしれない。

 


余談になるけど、乃木坂の中の「僕」は初期の頃と今では性格が変わってきているように思う。
初期の頃の「僕」は好きな子を眺めて、その子の幸せを願うだけだった。
コンバースの紐結ぶ振りして君のことを見ているような、もし君が振り向かなくてもその微笑みを僕は忘れないような子だった。

それが山下がセンターで僕は僕を好きになると歌って、賀喜ちゃんがセンターで好きになってくれと言えるまでになった。

大きな要因は「自信」だと思う。これは「僕」そのものが違う人間になったのではなくて、「僕」に自信がついて性格も変わってきた。そんなイメージを持っている。

そして「僕」に自信がついていってる理由はきっと新期生の加入。

三期生の加入(山センター)で自分を好きになれて、四期生の加入(賀喜センター)で君を後悔させないとまで言えるようになった。

後輩を優しく温かく迎え入れて、活躍を自分のことのように喜ぶ。そんな乃木坂らしさが出てる気がして、僕はこの乃木坂の「僕」に自信がついていってる感じが凄く好きだ。

 

飛鳥ちゃんの卒業で一期生、二期生が全員いなくなるけど、あの頃の「僕」の気持ちは失わずに持っていてほしい。もしかしたらそんな想いもあるのかもしれないなと思った。さすがに深読みだけど。

 

 

一つ目の裏テーマが「継承」

そしてもう一つの裏テーマは「卒業」

 

これは乃木坂46としての齋藤飛鳥の最後の姿をファンにお披露目するという意味ではなくて、飛鳥ちゃん自身が乃木坂から、メンバーから、楽曲から卒業するということ。


冒頭に書いた飛鳥ちゃんの表情。一曲一曲との最後を噛みしめていたように見えたのも、楽曲との卒業をしていたからだと思うようになった。

 

橋本奈々未と同じ最敬礼から始まった卒業コンサート

なんで同じ始め方をしたのか。ただななみんの真似をした、背中を追いかけた、そんな浅い理由ではないと思う。ただのファンサービスでもないと思う。

僕は、飛鳥ちゃんが今まで見てきた卒業の形として、「終わりの始まり方」として、一番美しく見えたからなんじゃないかなと思ってる。

一番美しいと思った始め方を自分もしようと、そう決めてたのかもしれないなと思う。

 

だけどそれだけじゃないと思う。

万歳三唱や一つ目上がりを知ってる飛鳥ちゃんが、形式の理由を調べない筈がないと思った。


「お辞儀 90度」をGoogleで調べると一番上にこんな文面が出てくる。

 

お辞儀の角度が深くなるほど、敬う心が強いため、近づき難い存在となり、お互いの距離は離れます

 

ファンに「またね」と告げた飛鳥ちゃん。

だからこの「お互い」はファンのことを言ってるのではなく、乃木坂との距離を示してるんだろうなと思った。

乃木坂から離れるためにはそれくらい強い意志を示す必要があった。

乃木坂を卒業するためにはそれくらいの覚悟が必要だった。

だから最敬礼から始めたのかもしれないな。

最敬礼の意味を知って、そう思うようになった。

それくらい乃木坂が大きくて大切な場所だったんだろうな。

そう思うようになった。

そして、ああ、飛鳥ちゃんは乃木坂から卒業しようとしていたんだなと思った。

 

 

乃木坂のライブにこだわった飛鳥ちゃんが、もし齋藤飛鳥卒業コンサートをしていたとするなら、2日目の『ありがちな恋愛』から『サヨナラの意味』までの5曲だと思う。

『ありがちな恋愛』

『地球が丸いなら』

『人は夢を二度見る』

『帰り道は遠回りしたくなる』

『サヨナラの意味』

 

 

2018年。20枚目シングルの選抜発表の時、飛鳥ちゃんはこんな言葉を残した。

 

「普通の人が学ぶであろうことを学ばずに来た」

「どうしたらいいのか分からないなって思った時に、その選択の一つが私は本を読むことだった」

 

 

人生に悩んだ時、勿論それだけじゃないだろうけど、どんな時も、飛鳥ちゃんは活字の中に答えを探してきたのかもしれない。

 

秋元康が詩集を出した時に、飛鳥ちゃんは帯コメントを書いてる。

 

秋元康さんの紡ぐ言葉は、雨。

降りしきる言葉の数々が体に染み込む

これに活かされているのだ、と思う。

 

活字に答えを探してきた飛鳥ちゃんは、乃木坂の曲の歌詞の中に答えを探した時もあったと思う。

 

 

この5曲からは、特にそれを感じた。

 

『ありがちな恋愛』

 

前回のブログにも書いたけど、この曲は男女の別れを書いた曲だけど、卒業にもあてはまると思う。

事実飛鳥ちゃんもこの曲について「歌詞も恋人同士の話にも見えるし、メンバー同士に置き換えても当てはまる気がしてずっと好きです」と言っている。

 

愛よりも大切な夢を見つけたのなら

現実はいつだって退屈なものだ

 

愛よりも大切な夢が乃木坂からの卒業だとしたら、君が卒業してしまうことがとても寂しいと、そう言ってるようにも思える。

或いは、乃木坂を卒業したら、みんなと会えない日々はとても寂しいと言ってるようにも見える。

 

ありがちなサヨナラはそれでよかったと言い聞かせて

何回も”もしも”ばかり振り返るだけさ

本当は納得できてないってことだろう

後悔はいつだって意地との綱引き

 

本当は去ってほしくない。

だけど愛よりも大切な夢を見つけたのなら、本音は言えない。

だからそれでよかったと言い聞かせてる。

 

ありがちな恋愛も、乃木坂の「僕」の「つよがり」な一面が出てる曲だと思う。

乃木坂の「僕」はいつだってつよがりだ。

本音は隠して、相手の気持ちを優先する。

卒業なんてしてほしくない。だけど決めた道だから笑顔で送り出す。

或いは、本当はまだ君と一緒にいたい。だけど卒業して一人歩き出す。

 

 

『地球が丸いなら』

 

齋藤飛鳥大園桃子、与田祐樹からなる三人でのユニット曲。

ユニットコーナーには持ってこずに、一人での披露。

 

飛鳥ちゃんの乃木坂人生を振り返った時に、桃子の存在は凄く大きいと思う。

初めて自分のことを先輩として分かりやすく慕ってくれた存在。

だからこそ、桃子の卒業に飛鳥ちゃんは悔いが残ってるんじゃないかなと思う。

 

「桃子が乃木坂も悪くないなって言ったあの時、桃子があの言葉を言った時の気持ちが痛いほどよく分かりました」

「だけどあの時、あんなに近くにいたのに、なんで私の力で乃木坂っていいなって思わせられなかったんだろうってずっと心残りでした」

「力不足な先輩で本当にごめんね」

 

 

僕は今のさくちゃんと飛鳥ちゃんの関係は、桃子との関係がなければなかったと思ってる。

 

もし出会いが偶然なら

さよならも巡り合わせ

抗えるわけないでしょう

ねえ いろいろとあってここに来て

見つめ合う愛しさと悲しさと…

 

この曲を一人で披露したのは、飛鳥ちゃんの中の乃木坂の時の桃子への感情を昇華させようとする意味も込められてるからなのかもなと思った。

 

 

 

『人は夢を二度見る』

 

僕はこの曲は卒業メンバーにも当てはまるなと思っていた。

 

もし僕がある日急に 世界からいなくなったら

どこの誰が泣いてくれるか?考えたこと君もあるだろう? 

 

10年後の自分とか 想像なんてできなかった

10年前の僕からは 今の自分はどう見えるか?

 

この曲を初めて聞いた時、もしかしたらメンバーよりも飛鳥ちゃんに刺さったのかもなと思う。

 

「乃木坂をよろしくね」

と言ってポジションについて曲紹介をする時、涙で声が詰まっていた飛鳥ちゃん。

この曲で乃木坂を卒業していくんだなと思った。

同期よりも大切な存在と言っていた後輩に囲まれて、後輩の曲を一緒に歌うことで、送り出してもらうんだなと思った。

 

久保山下に挟まれてフロントで歌い出す飛鳥ちゃんは、曲の進みと共に徐々に後ろに下がっていった。

1サビでこの曲は久保下がセンターの曲だというかのように一歩後ろに。

間奏でメンバーと共にしゃがむと、2サビ始まりで他のメンバーが立ち上がる中一人だけしゃがんだままいて、「夢をもう一度見ないか?」の歌詞と共に久保下が飛鳥ちゃんに手を差し出して、2人に支えられて立ち上がり、一番後ろに。

最後は最後列より更に一歩後ろに下がって歌っていて。

 

「夢をもう一度見ないか?」を飛鳥ちゃんは歌ってなくて、メンバーが立ち上がるのをただ見ているだけで。久保下が飛鳥ちゃんにそう伝えて立ち上がらせたようにも見えて。

そして最後列より後ろから乃木坂全員を見て、見守って、見届けて、「今ならちゃんと夢を見られる」と言ってるように見えて。

 

乃木坂は私たちが守ります。だから飛鳥さんは新しい場所でもう一度夢を見て下さい

と後輩に言われて、しっかりと後ろから後輩たちの姿を見て、安心して夢を見ようと決意出来た。

 

僕にはそんな物語に見えた。

 

 

『帰り道は遠回りしたくなる』

 

そんな物語を見た後だったから、ここでのこの曲は凄く琴線に触れた。

ライブの中で一番心に響いた曲かもしれない。

 

僕はこの曲が凄く好きで、卒業ソングを抜きにしても乃木坂の曲の中でもかなり好きで、一度この曲についてだけでブログを書いてるくらい好きな曲で。

 

余談になるけど好きな理由を書きたいと思う。

 

この曲は乃木坂の曲の中で唯一、頭と終わりの歌詞が同じだ。

 

「好きだった この場所」

 

好きだったこの場所を振り返って、自分はここから出ていくという決意をして、だけど結局最後にこの場所を好きだということを再認識して曲が終わる。

これが凄く乃木坂の「僕」らしくて、切なくて。最上級のつよがりを歌った曲だと思っていて。

 

この曲は僕がこの場所から出ていく曲だ。

僕は曲の中で何度も決意をする。

 

新しい世界へ

今 行きたい

行きたい

行きたい

行きたい

強くなりたい  

 

何度も「行きたい」と言うことで、自分に言い聞かせてるようにも見える。

それくらい、言い聞かせないとここから離れられない心情が伝わってくる。

二番ではその気持ちがもっと強くなる。

 

このままワンウェイの標識

でも行くんだ

行くんだ

行くんだ

行くんだ

戻れなくても

 

「行きたい」から「行くんだ」と離れる決心を強くする。

そして曲の中ではずっとその理由を歌ってる。

 

いつかきっと違う道選んだ輝く未来のためと 互いに分かるだろう

 

今がどんな眩しくても、未来はもっと眩しいかもしれない

 

「行きたい」から「行くんだ」と自分に言い聞かせて、未来はもっと眩しいはずだと前を向いて、だから君と離れるのは寂しいけどこの場所から旅立つんだと決心して、そんな強い意志を見せているのに、最後の最後、「好きだったこの場所」で曲は終わる。

 

この場所に名残があるなら、それでも離れなければいけないなら、もっと強くこの場所から離れようとすることも出来たと思う。

今はこの場所のことは忘れるくらい、それくらいの気持ちで前を見ようと決意することも出来たと思う。

その方が簡単で、そうする人も沢山いると思う。

だけど「僕」はそうしなかった。

もしかしたらそうしようとしてたのかもしれない。

だけど結局最後にこの場所が好きだと本音を溢す。

 

この曲は西野七瀬の卒業楽曲だけど、凄く飛鳥ちゃんだなと思った。

 

最後の最後までこの場所を好きな気持ちを隠そうともせずに、だからこそ自分が参加してない楽曲も後輩と一緒に披露する。それくらいここが「好きだったこの場所」だから。

 

 

乃木坂46のライブにこだわって、自分自身の卒業は人知れず曲やメンバーとのお別れをしてきたように思えていたから、

人は夢を二度見るの披露で、一番大切な存在の後輩の力を借りて乃木坂から送り出してもらってるように見えていたから、

そんな飛鳥ちゃんの本音が「好きだったこの場所」に出てるように見えて、全部がつよがりに見えて。

それって乃木坂の「僕」で。

やっぱり飛鳥ちゃんは乃木坂の「僕」なんだなって思えて。

だからこの曲が一番心に響いた。

 

 

 

『サヨナラの意味』

 

もうこの曲に関しては散々書いてきたし、今更言うことはないんだけど、橋本奈々未がセンターで歌っていた時は「サヨナラに強くなれ」は残されたメンバーの感情だと思っていた。だけど飛鳥ちゃんがセンターで歌っている時は、自分自身に言ってるように見えた。それはこの前の二曲を観て前述の感情になっていたからだと思う。

 

そしてサヨナラの意味を歌い終わった時、冒頭に書いた優しくて寂し気な表情をしてるなと強く思った。

 

 

以上が、この5曲が齋藤飛鳥卒業コンサートだったのかもしれないなと思った理由です。

 

 

 

長くなってしまったのでそろそろ締めたいと思います。

 

前回のブログでも、そして飛鳥ちゃんが卒業発表した時のブログでも書いたんだけど、僕は齋藤飛鳥が見せてくれる物語がずっと好きで。だけどその物語は僕が勝手に作り出しているもので、飛鳥ちゃんの意図とはかけ離れたところにあるかもしれない。

だからここに書いた全てを合ってるとは思わない。ただ今までもずっと物語を作ってきたから、物語を作るのが好きだったから、最後のライブにも物語を作ってしまって。

だからここに書いたのは完全な「僕の思い込み」になります。

 

卒コンが終わって一か月。未だに余韻は消えないし、この先も消えることはないんだと思う。それは齋藤飛鳥の作ってきた物語があまりにも好きで、その大好きな作者が作ってくれた最後の物語が最後まで本当に良かったから。

 

乃木坂46の齋藤飛鳥はもう見ることは出来なくなってしまったけど、きっとこの先も沢山の物語を見せてくれると思っているし、それを楽しみにしてます。

 

「またね」

 

を信じて。

 

読んで下さってありがとうございました。