diary

“Quem deseja ver o arco-íris, precisa aprender a gostar da chuva.” @pyi46

『僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46』の感想。

 

人の能力、性格を決めるのは遺伝なのか環境なのかの論争は長年に渡って繰り広げられてきた。

ある研究者は「人間の心理的な発達に1番影響を与えるのは遺伝である」と主張し、ある学者は「環境が人を作る」と主張してきた。

だけど最近脳科学によってこの長年の疑問に答えが出たらしい。

その答えは「遺伝と環境、人に与える影響は半々」

いやそりゃそうだろと思うけど、なんとなくそうなんだろうなと思ってることも賢い人が「脳科学で証明されたで。どや」と言うと説得力が増す。

つまり何が言いたいのかっていうと、人格を形成するのには環境も大きく影響するってことです。

 

---

 

個人、団体、集合体、固有名詞…人はそれらに自分の中で勝手にイメージを作る。

例えば偏差値の高い学校の名前を聞くとそこの学生は頭が良い印象を持つし、バスケが強い学校の名前を聞くとその学校のバスケ部の子はバスケが上手いという印象を持つ人が多いと思う。

例えばIT企業で働いてると聞くとインドアで内向的な印象を持ったり、大阪出身と聞くと関西弁で明るい性格という印象を持つかもしれない。

人は「その人」を知る時にまず「その人のイメージ」を作り出す。その後に自分の中のその人と本当のその人とを照らし合わせながら時間をかけて答え合わせをしていく。

 

乃木坂も少し前に「乃木坂らしさ」を模索している時期があった。この乃木坂らしさも、乃木坂の色であり、イメージであり、ある意味では先入観でもある。

今、乃木坂らしさと聞くと、優しい、仲がいい等をイメージするかもしれない。

日向坂らしさと考えると明るい、面白い等だろうか。

では欅坂らしさってなんだろうなと考えた時に、パフォーマンス力、楽曲やダンスのかっこよさ等が思い浮かぶ。

だけど僕はこのイメージがどうしてもしっくり来ない。

例えば乃木坂で言えば優しい、仲がいいというのは白石麻衣を初めとした乃木坂を先導していったメンバーのイメージがそのまま乃木坂のイメージとして定着している。

日向坂も、佐々木久美や加藤史帆の作り出したイメージに他のメンバーも同調することで明るく面白いグループという印象を持ってると思う。

乃木坂も日向坂も「グループの中にいるメンバーが作り出した環境」がそのままグループのイメージとなっている。

だけど欅坂と聞いて思いつくイメージは、欅坂のメンバーが作り出したイメージではなくて「欅坂を作った大人」が作り出したイメージだ。

彼女達が望んでそうなったのではなくて、『大人達に支配されて』そうなった。

だから僕の考える欅坂への印象は、どことなく無機質な、人工的な、機械の歯車的な印象になってしまう。それがしっくり来ない理由なんだろうなと、欅坂に対して漠然とそんなイメージを抱いていた。

 

欅坂らしさってなんだろう。

また、タイトルにある「僕たちの嘘と真実」の「嘘」とはなんだろう。

そんなことを考えながら映画館に足を運んだ。

 

 

---

※ここから先は映画のネタバレも多く含みます。ご了承ください。

 

初めに言っておくけど僕は欅坂について殆ど知らない。

ライブ中に平手が演出を無視して花道をセンターステージまで踊りながら駆けてステージから落下した事も、センター不在の二人セゾンで間奏のソロダンスを小池美波がアドリブで踊ったことも(映画の中でこのシーンが1番感動した)、この映画を通して初めて知った。

 

だからこれはあくまでも「映画を見ての感想」になることを最初に保険として書いておきます。

 

映画を見ながら最初に思ったことは(この映画はドキュメンタリーというよりも作品に近いな)だった。

まず感じた違和感は彼女達へのインタビューだ。

彼女達がインタビューを受けている場所は、地上が見渡せる高層ビルの一室であったり、キャンバス、大きな本棚の傍ら、お洒落な飲食店など様々で、それらは彼女達のイメージに合わせた場所なのかもしれない。それはいいんだけど、僕が気になったのは彼女達のインタビューを受ける姿だ。

ドキュメンタリーのインタビューなら、彼女達の本音を引き出したい筈、その為には自然体な姿で応答するのがベストだと思うし、画としてもそう映すのが自然だと思う。だけど映画内での彼女達は、椅子に座ってる子もいたけど、椅子があるのに立ったままだったり、寄りかかったり、様々な姿で質問に答えていた。これは見せ方、「画」にもこだわった製作者側の演出だと思った。

それはつまり、「このインタビューは自然体ではなく、製作者によって作られた演出の上で答えられてる」んだと監督からの隠れたメッセージのように僕には思えた。

これは僕が映画を見る前に「この映画はノンフィクションで作られたフィクションだ」という欅坂のファンの人のツイートを見た影響もあるかもしれない。

 

勿論彼女達の言葉に嘘はないと思う。ただもしこのインタビューの形も理由があっての演出だとしたら、映画全体が「大きな嘘」で覆われているような、そんな印象を抱えながら映画を見進めていった。

 

映画は終始インタビューを挟みながら「ライブ」と「MV撮影」を追っていく。

欅坂の歴史の中には他にも多くの出来事があったと思う。それらを全て排除しながら、ひたすらライブに特化した進行をしていく。それも僕がこの映画を「作品」だと思った理由の一つ。

 

そして映画の中心にいるのは平手友梨奈の存在。

映画の中での平手は傍若無人で唯我独尊、孤高の存在として画かれている。

冒頭にも書いたがライブ中にアドリブでセンターステージまで駆けて落下し怪我。その後のライブを欠場。

「納得のいくパフォーマンスが出来ない」とライブを直前に出演拒否。

「曲の世界観に入り込めない」と自分がセンターのMVの撮影に参加しない。

 

そんな状況の中で平手の穴を埋めるように必死にパフォーマンスをするメンバー。

映画は徹底して「平手友梨奈」と「他のメンバー」の構図を取ったまま進んでいった。

 

 

僕は映画を見ながら、欅坂はアイドルというよりもアスリートに近いなと思った。

 

楽曲もダンスもMVも全てがあまりにも良すぎてファン以外にも様々な方面から注目を浴びたサイレントマジョリティー。

 

映画の中にはデビュー当時のまだあどけない平手の映像もあった。

自分が言わなければいけないセリフを何度も何度も繰り返し練習する。

本番直前まで、現場につくまでの移動中も練習を繰り返す。

与えられた課題を自分が納得がいくまで何度も練習をして、完璧な状態を披露したい。それが平手の根っこにある性格なのかなと感じた。

その性格と、最高の評価を受けたデビュー曲。そしてセンターの重圧、責任。

色々な要素が合わさった欅坂での環境がその後の彼女の人格に影響を与えていったように思えた。

 

常に過去を越えなければいけない。そうやって彼女はハードルを上げていく。

そして彼女が上げたハードルを必死に超えようとする他のメンバー。

上げ過ぎたハードルは飛び越えるのが困難になり、しがみつき、よじ登るように超えるしかない。

それでも必死に超えようとするメンバー。そして超えるのを諦めたメンバー。

その状況がまるでアスリートのように見えた。

 

平手は自らを磨き上げていくのにあたって決してメンバーと同調しない。

そんな平手の様子を見ていると獅子の子落としを思い出した。

獅子の子落としとは、獅子は千尋の谷に我が子を落とし、這い上がってきた強い子だけを育てるという昔のことわざだ。

平手は必死についてくるメンバーを蹴落とすことはないが、手を差し伸べることもない。

ただ黙って山の頂上に立っている。そんな画が頭に浮かんだ。

 

映画の中では、パフォーマンス後の平手をスタッフやメンバーが抱えて歩くシーンが何度かあった。

満身創痍の平手は歩くこともままならずに両腕を抱えられて引きずられていく。その姿がとても印象的だった。

どれだけ満身創痍になったとしても支えられながらなら歩くことくらいは出来ると思う。誤解して欲しくないが、彼女がわざとそうやってるって言いたいわけじゃない。嘘をついてるって意味じゃない。

全力を尽くしてのパフォーマンスを披露した後、裏に戻ると周囲の支えに全体重を預ける。普段は周囲に同調しない彼女が、この時は赤子のように全てを預ける。

この対比が印象的に映った。

人との距離の取り方が不器用な人なのかなと思った。 

グループの価値を上げようとしての行動も不器用になってしまったのかなと思った。

 

 

秋元康のグループにおいてセンターというポジションは特別な意味を持ってると思う。

中学生でセンターに抜擢されて、年上のメンバーを後ろに従えて、「センター平手友梨奈」が確立していった。

完璧な作品を求めたい。だけど他のメンバーに自分の望みは強いれない。

その環境が少しずつ蓄積された結果、孤立に繋がってしまったのかなと思った。

 

ーーー

  

 

映画の終盤、黒い羊のMV撮影のシーンがあった。

僕はこの曲が凄く好きなんだけど、二時間映画を見てきた後にこの曲を聞いた時に、今までとは全く違う思いを抱いた。

「まわりと違うそのことで誰かに迷惑かけたか?」

凄いブラックジョークだなと思わず笑ってしまった。

映画の中で平手は迷惑をかけ続けてきていた。二時間フリをきかせて最後に「誰かに迷惑かけたか?」と聞いてくる。この流れも監督の意図だとしたら、とんでもなく皮肉を効かせてるなと思った。

MV撮影後倒れこむ平手に駆け寄るメンバー、その中で一人だけ輪の外からその光景を眺めている鈴本美愉の構図が印象的だった。

 

 

 

僕はこの映画を見る時に欅坂らしさってなんだろうってものが見えればいいなと思っていた。だけどこの映画を見ながら感じた彼女達へのイメージは

「葛藤」「戸惑い」「我慢」だ。

 

孤高の天才、平手友梨奈に振り回されるメンバー。

だけど誰一人平手に文句を言うメンバーは居ない。

平手ありきの欅坂だから。平手が居たから今の欅坂があるから。

誰もが平手の圧倒的なパフォーマンスに納得してる。平手は自分たちよりはるか先を見ている。納得出来ずに参加しないのも、パフォーマンス維持の為になら仕方がない。

 

僕は正直この状況は異常だなと思った。

さっき僕は彼女達はアスリートに近いなと言った。

だけど、欅坂に「アスリートになりたい」と思って入ってきた子はきっと一人もいない。 

自分の中の理想像があったはずだし、こうなりたいって思いもあるはずだ。

勿論インタビューの中での平手に対するメンバーの言葉に、想いに、嘘はないと思う。

平手に対して感謝も、尊敬もあると思う。

だけど、別の感情もあるはずだとも思う。もっと寄り添ってほしい、もっと仲間として活動したいという思いもあったかもしれないし、そこまでのストイックさは本当に必要なのか、私たちはアイドルなんじゃないのかって思いもあったんじゃないかなと思う。

 

だけど誰一人それを口にはしない。

 

平手に対してのコメントを求められて 菅井友香は「自分がイメージしていたグループとは違う」と答える。守屋茜は「バックダンサーなのかと思う時期もあった」と答える。

それでも平手の行動は納得出来ると。それは納得するように自分に言い聞かせてるようにも見えた。

 

 

僕がこの映画の中で一番印象に残ってるのが小林由依へのインタビューでの一言だ。

 「私が思ってることと、みんなが思ってることが違うと感じることが多いので、話しずらい」

具体的に何に対してなのかは触れなかったけど、そこまでの流れから平手友梨奈について聞かれての答えなんだと思えた。

この言葉を聞いた時に彼女だけが唯一本音を語ったなと思った。

周りが誰一人言わない自分だけの意見を言うのは凄く勇気がいることだ。はっきりと言及したわけではないけど、見る人には伝わるように自分の意見を映画のインタビューって状況で言葉にした彼女は凄いなと思った。

僕は彼女の言葉を聞いた時にある曲の歌詞が頭に浮かんだ。

 

『誰かのあとついて行けば傷つかないけどその群れが総意だとひとまとめにされる』

 

彼女達は知らない間に、平手友梨奈についていこうとしていることで、自分たちがサイレントマジョリティー(物言わぬ多数派)になってしまっていたんじゃないか。そして、その状況の中で小林由依だけが『No』と言ったんじゃないのか。そう思った。

 

そしてこれこそが『僕たちの嘘と真実』なんじゃないのかなと思った。

 

 

 映画の最後に「誰がその鐘を鳴らすのか」のパフォーマンスがあった。

センターに立つのは小林由依。そこに平手友梨奈の姿はない。

だけど僕はこの曲のパフォーマンスが一番感動した。胸を打った。

彼女達が作り上げてきた欅坂の姿があるように見えた。

 

ーーー

 

僕は、ドキュメンタリー映画は製作者側の感情は出来るだけ削いで俯瞰で撮るのがベストだと思う。感情を込めずに「事実」だけを記録として見せる。感想は視聴者が各々の価値観で判断する。

それに伴ってインタビューも主観ではなくて出来るだけ客観的に視聴者が求めてるであろう質問をするべきだと思う。

 

映画の中でこれは主観的だなと思う質問が一つあった。

TAKAHIROへのインタビューで、インタビュアーが「大人の責任ってなんだと思いますか?」と聞いた。それに対してTAKAHIROは言葉を選びながら「見続けること」と答えた。

製作者として、欅坂を俯瞰で追い続けて、その中で何が起きても疑問を呈することなく映像として記録を撮り続ける。

欅坂を唯一外部から見続けてきた結果、その中でどうしても聞きたくなったことが「大人の責任」なんじゃないのかなと思った。

 

たった一人の少女が、欅坂に関わる全ての人間を翻弄していく。

納得が出来るパフォーマンスが出来ないとコンサートを休むアーティストを僕は知らない。自分がセンターのMVの撮影に来ないアーティストを僕は知らない。

その状況を作り出したのは平手友梨奈ではなく、大人だと思う。

だから大人の責任を問いただしたかったんじゃないかなと感じた。

その質問の裏側に隠れた意図が分かったからTAKAHIROも答えに詰まったんじゃないかなと、そして出した答えが「見続けること」になったように見えた。

 

 

僕は何度も「映画の中では」と言ってきた。

平手は決して傍若無人なだけの人ではないと思う。ライブを休んだのにもMVを休んだのにも彼女なりの理由があったはずだと思うし、彼女の行動の全てには映画には映されなかったもっと多角的な理由があるはずだと思う。

だけど映画ではそれらを一切排除してる。

まるで弁護人がいない裁判で検察側が一方的に事実だけを述べているような、そんな印象を持った。見る人によっては誤解されてしまうような、そんな作りになってるなと思った。

 

誤解を招くリスクを取ってでも平手と他のメンバーの構図を強く見せてきた理由。

それは彼女達の未来に繋げる為なのかなと思った。

新たなグループへと変貌を遂げようとしている彼女達。

欅坂からの脱却は、平手友梨奈からの脱却であり、サイレントマジョリティーからの脱却でもある。

サイレントマジョリティーで始まって、誰がその鐘を鳴らすのかで終わる欅坂の物語。

その歴史を色濃くするために、この構図を強く見せてきたのかなと感じた。 

平手友梨奈に必死で食らいついてきた結果、彼女達自身が胸を打つパフォーマンスをする集団へとなった。それは彼女達が望んでいた世界ではなかったとしても、間違いなく彼女達の魅力であり、武器となった。

 

グループ名が変わることを発表する時の菅井友香の「欅坂46で培った経験がきっと私たちを鍛えてくれています。ですので、この経験を信じてまた新たに強く強いグループになることを約束致します」というコメントが印象に残った。その通りだなと思った。

彼女達が欅坂で経験してきたことは決して無駄じゃない。全てが土台となって、新たなグループへと変化していく。そう思った。

 

だから僕が映画を最後まで見て思った欅坂らしさは、「努力」「真摯」だ。

何が起ころうと現実と真摯に向き合い、努力した結果の積み重ね。それが誰がその鐘を鳴らすのかのパフォーマンスに繋がってるように見えた。

 

欅坂から新たなグループへと変わるまでのストーリー。

この映画全体が、事実であり、物語でもある。

それもまた、タイトルの「嘘と真実」の中に込められてるのかなと思った。

 

ーーー

 

先日新たなグループ名が『櫻坂』になると発表があった。

イメージカラーは白。

白色は勇気がいる決断だなと思った。

正直、欅坂は白とは言い難いイメージだと思う。

欅坂にそんなに詳しくない僕でも、スキャンダル、相次ぐ卒業、運営のファンとの向き合い方、色々な面でグレーなイメージが強い。

 

ただ、白色からは強い意志も感じた。

 

もう誰がしたのかも覚えてないけど、昔見たツイートで強く印象に残ってる言葉がある。

『オタクは過去を

アイドルは今を

運営は未来を見ている』

ファンが見るのはいつだって過去の出来事。

決定されて、作られて、世に出た作品を見ることしか出来ない。

アイドルが見ているのはその時。作品を作り出すその瞬間。

運営は未来。作り出すのが仕事だ。

その環境も相まってか、ファンは過去を見がちな傾向にあるとよく感じる。

過去にこんな出来事があったから、過去にこんな発言があったから。その印象を強く持って批評してるなと思う。

 

だけどアイドル、運営が見てるのは今であり未来だ。

過去に何があったかよりも、今、未来どうしていくのかを考えてる。

その価値観の相違が食い違いを生んでるんだろうなと感じることがある。

 

ブログ冒頭で僕は「人格を形成するのには環境も大きく影響する」と書いた。

これは僕の偏見かもしれないけど、正直、欅坂はアイドルにとって「アイドル」を続けるのに難しい環境にあったように見える。実際のところは分からないので勝手な推測になるけど、スキャンダルや卒業の多さもそれが原因の一つのように思う。

だけどその難しい環境の中でも「真摯」に「努力」してきた子が、今『櫻坂』となった。

だから、あえてイメージカラーを「白色」にした。

「過去」ではなく「今」を、「未来」を見てほしい。そんな強い思いが込められてるように思えた。

 

 

菅井友香がコメントした通り、櫻坂は強いグループだと思う。

真摯、努力は欅坂らしさだったかもしれない。だけど本当の彼女達の魅力はまだ他にあるはずだ。

欅坂で培ってきた経験を乗せて、きっとこれから新しい櫻坂らしさを見せてくれる。

まだ何色にも染まってない櫻坂を美しく染め上げてほしいなと思う。

願わくば運営の色ではなく、彼女達の色で。