diary

“Quem deseja ver o arco-íris, precisa aprender a gostar da chuva.” @pyi46

『君に叱られた』と『ウォーキングデッド』から見る『乃木坂46物語』

 

お久しぶりです。

突然ですが、皆さんは『ウォーキングデッド』をご存知でしょうか。アメリカで2010年から放送が開始された人気ドラマで、簡単に言うとゾンビが沢山出てくる物語です(雑すぎる説明)。

日本でも何度か話題になったりしているので見たことが無くても名前くらいは聞いたことがある人は多いんじゃないかなと思います。

今はシーズン10まで終わっていて、シーズン11で完結を迎えるらしいです。僕も好きでシーズン1からずっと見ているのでシーズン11が今から楽しみです。

10年以上続く作品なので物語の進行と共に色々な変化もあります。

最初は主人公だった人が今はもう出てこないし、初期の中心人物はほぼ死んでいます。シーズン1の主要人物は今はもう殆ど居なくて、最初はあまり目立っていなかった人が今は中心にいたりもします。

また長いだけあって登場人物も内容もかなり富んでいるので、普段全く目立たない人がある時期だけは主役級の扱いになったりもします。

第1話に出ていた登場人物が全て入れ替わって今は1人もいなくなっていても『ウォーキングデッド』として物語は続いていきます。

 

初期に居た人が今はいなかったり、初期は活躍してなかった人がいつの間にか中心人物になっていたり、或いは主役が時期によって変わったり、新しいキャラが増えたり。これってなんとなくアイドルに似てるなーなんて思います。

 

 

さて。

新曲の発表がありましたね。

『君に叱られた』

初めてパフォーマンスを見た感想は「「世代交代」を強く意識した楽曲だな」でした。

これは決して否定的な意味でもネガティブな意味でもないですし、何故そう感じたのかの理由はちゃんと後述しますが、それでもこーゆー話題は好きじゃない人もいると思うので、この先は許容できる人だけ読んでいただけると幸いです。

 

女性アイドルの世代交代って凄く難しくて、今までに成功したグループはないとも言われます。

そんな中で乃木坂はここ数年をかけてゆっくりと時間をかけて大切に世代交代をしてきたなという印象を受けます。成功させたい思いが強いというのもあるでしょうし、乃木坂がコケたらダメージを受ける人が多いというのもあると思います。乃木坂に関わる企業、製作関係、スタッフ等は勿論、乃木坂の人気が落ちたら櫻坂や日向坂にも影響が出るだろうし、それだけ乃木坂の存在が周囲に与える影響は大きいんだと思います。まさにインフルエンサー

 

ウォーキングデッドもここ数シーズンは視聴率が低下しているようです。長すぎて視聴者が飽きて離れてしまったことや、物語のマンネリ化、主人公が居なくなった影響もあるのかなと思います。

 

物凄い人気作品だったとしても、長く続ける事で視聴者が離れてしまう。それくらい世代交代ってのは難しいんだろうなと思います。

 

ゆっくりと大切に世代交代をしてきた乃木坂が、前作ではさくらちゃんセンター、今作では賀喜ちゃんセンターと新しい形を見せてきました。どちらも裏センターが卒業を控えたメンバーだったことも相まって、世代交代の印象をなんとなく受けてましたが、今作は特にその印象が強い作品だなと思いました。

 

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もし『ウォーキングデッド』のように乃木坂46の軌跡に『乃木坂46物語』(ダサい)とタイトルをつけるとしたら、シーズン1は何処まででしょうか。

色々な考えの人がいると思います。サヨナラの意味って人も、シンクロニシティって人も、againstって人もいるだろうし、或いはシーズン1はまだ完結してないって人も、もう今はシーズン4だって人も、またシーズンなんてものはないって人もいると思います。勿論正解なんてないし、正解を求めるつもりもないですが、僕個人としては完全にシーズン1の完結は『Sing Out!』だと思っています。

ぐるぐるカーテンから始まった乃木坂46の物語は、シングアウトを披露した事で一つの物語の完結を迎える。それくらいシングアウトの完成度は高いと思います。

これは楽曲の良さだけではなく、楽曲、歌詞、衣装、振り付け、MV。全てが今までの乃木坂の経験が培ってないと成り立たってない。

例えばこの曲が5枚目位に入っていたとしたら、もしかしたらアンダー楽曲だったかもしれないし、いい曲だね位の評価で終わっていたと思います。

23枚目だからこそ、それまでの乃木坂を作ってきた全ての経験値が集約されている。そしてそのスタッフや製作者含む彼女達が作品を通してファンに提示してきた答えが芸術作品と言ってもいい程に美しかった。

 

物語の途中で主要な人物が居なくなったり、新たな登場人物が増えたりと、数多のストーリーを見せてくれながら、乃木坂46はシングアウトの完成に向かって歩んできたとも言える程に、この楽曲は一つの完成系になっていると思います。

 

シーズン1の完結がシングアウトだとしたらシーズン2は何処からでしょうか。奇しくもシングアウトには4期生が初参加の4番目の光が収録されていて、そして次の楽曲はさくらちゃんがセンターを務める『夜明けまで強がらなくてもいい』です。

だけど僕はシーズン2の始まりは『I see...』だなと思います。

I seeは乃木坂の代表作の一つと言っていい作品だと思います。そしてそれを歌うのは4期生、今までの乃木坂にはない色を持った作品が、代表作の一つになった。そしてテレビでは選抜メンバーがオープニングダンスを踊ったり、先輩メンバーがライブで披露したり、後輩が作り出した新しい色の作品に先輩から融合していった。今まで作り上げてきた乃木坂の形は彼女達にとってとても大切なものだと思います。だけどそれを意固地にならずに、新しい色も受け入れていった。これって凄く乃木坂らしいなと思います。

アイドルにとってメンバーは仲間でもあるけど椅子取りゲームの相手でもあります。自分の立場を脅かす可能性がある後輩を、彼女達はいつも愛情を持って受け入れてきた。

そのやさしさがI seeへの接し方に繋がってるなと感じます。だからこの楽曲は4期生の曲ですが、4期生の代表作と同時に乃木坂の代表作だなと僕は思います。

新しい色を持った楽曲が、新しい乃木坂の代表作となった。だからシーズン2の始まりはI seeじゃないかなと僕は思います。

 

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そのI seeでセンターを務める賀喜ちゃんがセンターの新曲。

その裏センターにいるかずみんが、2015年の真夏の全国ツアーの時に飛鳥ちゃんの映像を担当した中でこんなことを言ってます。

同じ年代のみなみが太陽だとすると飛鳥は月だ

決して比較対象するわけじゃないですし、似てるわけでもないですが、賀喜ちゃんとさくらちゃんからも近しいものを感じます。同じ年代の賀喜ちゃんが太陽、さくらちゃんは月。

ネガティブで控え目だけど、パフォーマンスは見る者を惹きつけ、その表情からは気迫すら感じる。自分の立ち位置への重み、覚悟が伝わるさくらちゃんの表現はとても魅力的で、乃木坂の歴史を継いでいこうとする意思が伝わってきます。

いつも笑顔で周囲も巻き込む明るさを見せて、多才の裏には好きな物に対する努力と熱量が伝わってくる。自信の無さも努力と練習量で笑顔に変える力を持つ賀喜ちゃんからは新しい色を感じます。

 

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『君に叱られた』

作曲者はI seeと同じyouthcase。振り付けは違う人みたいですが、所々でI seeに寄せてるなという印象を受けました。そしてセンターに立つのはI seeでセンターを務めた賀喜ちゃん。これは賀喜ちゃんの為に作られた曲という意味ではなくて、I seeが4期生の楽曲から乃木坂の代表作になったように、先輩の方から新しい色に寄せていくことで乃木坂全体で新しい形を見せていこうとしている、そんな印象を受けました。先輩の方から新しいセンターを包んであげようとしてる、凄くやさしい曲だなと。

 

「君に叱られたことで君の存在がわかった僕」も今までの乃木坂の楽曲にはいなかった「僕」だなと思いました。もし西野七瀬がセンターだったら叱らせてしまったことを申し訳なく思うような曲だったかもしれないし、白石麻衣がセンターだったら叱ってほしい本音を隠したような曲だったかもしれないし、飛鳥ちゃんがセンターだったらなんだよ…叱るなよ…バカ…だったかもしれません(かわいい)

まぁ人によって印象は違うだろうしそんなことないと言う人もいるだろうし、これは勝手な僕の思い込みですが(上手い)

まなったんがインスタでタイトルを「君に叱られたい」と間違えていたらしくて、これももしかしたら今までの乃木坂だったら「君に叱られたい」になっていたからかもしれないなと思いました。

 

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前作ではさくらちゃんが今までの乃木坂の形に必死で食らいつくパフォーマンスを披露して、今作では逆に乃木坂全体で新しい乃木坂の色に合わせにいった。

シーズン2の始まりと共に現れた二人の新たな主要人物が、太陽と月のように、今までの乃木坂を系譜しながら新しい乃木坂も見せてく。『君に叱られた』の初披露を見ながらそんな物語が浮かんだので久しぶりにブログに書いてみた次第です(曲を聞け)

 

 

ウォーキングデッドも今は第1話の登場人物が一人も出てきませんが、一気にいなくなったわけではありません。物語の進行と共に徐々に入れ変わり、誰一人いなくなっても物語は続いて行く。

乃木坂物語(ダサい)も、いずれそうなる日がくるんだろうなと思います。

1、2期生が作り上げた乃木坂を3期生が引き継いで、4、そして5期生へと繋げていく。

どーでもいい余談ですが、3番目の風、4番目の光と来て、もし5期生にも楽曲があるとするならタイトルは5番目の色じゃないかなと予測してます。理由は前述したとおり、新しい色を見せることが世代交代のカギになっているようなプロデュースをしてきてるように思うからです。

 

 

そして新たなセンターを常にフロントで支える飛鳥ちゃんの存在。

もし仮に『乃木坂46物語』(ダサい)のシーズン1がシングアウトで完結するなら、シーズン1は『齋藤飛鳥物語』(ダサい)でもあったと思います。推し補正抜きにしても。飛鳥ちゃんの成長が乃木坂が大きくなった理由の一つと言っても過言ではないなと思います。

かずみんは前述した飛鳥ちゃんの映像の中でこんなことも言ってます。

飛鳥はダンスも歌もできる。
トークも個性的だ。
ライブとかで間違えるのを見たことがない。
私、高山が個人的に思うことだが飛鳥は一番可能性があるメンバーなんじゃないかって思う。
今は若いし、まだまだ子供だけど。
飛鳥がもし乃木坂のリーダーになるような日が来るとしたらワクワクする。
私はいつかそのリーダー像を見てみたい。

今や乃木坂を牽引していると言ってもいいほどの存在になった飛鳥ちゃん。6年前にこんな言葉を残したかずみんがその姿を見届けて卒業していくのも、乃木坂物語の一つだなと思います。

 

 

君に叱られたの感想を書こうと思っていたら飛鳥ちゃん可愛いに着地してしまいました。

いやー、君に叱られた、いい曲ですね(雑な終わり方)

ロールパンナちゃんを抱きしめたい

 

あけましておめでとうございます。今年もなにとぞ。

 

突然ですがみなさんはロールパンナちゃんをご存知でしょうか。

僕は知りませんでした。正確に言えばアンパンマンに出てくるキャラクターってくらいは知ってましたけど、どんな子なのかは知りませんでした。

去年の夏くらいに知って好きになったむかいの喋り方ってラジオ番組があるんですけど、その中でロールパンナちゃんの話になり、そこで彼女の境遇を初めて知りました。

 

ざっくりと簡単に説明すると、

 

ロールパンナちゃんはメロンパンナちゃんのお姉さんとして作られました。

メロンパンナちゃんが「まごころ草」という珍しい草を見つけて、その花粉を混ぜると優しい戦士が作れるとの話から「お姉ちゃんが欲しい」とメロンパンナちゃんがお願いして作られました。

ただ製作前に情報を知ったバイキンマンによって、まごころ草を混ぜた生地の中に「ばいきん草」のエキスを混ぜられてしまいました。

それによって、彼女はまごころ草の善の心と、ばいきん草の悪の心、両方を持ったまま生まれてきました。

 

ロールパンナちゃんについての詳しい話は他にも書いてる人がいるので興味を持った人は調べてみるといいと思います(新年から丸投げ)

 

ロールパンナちゃんは善悪のコントロールを自分ですることが出来ません。

ばいきん草の悪の心がいつ発動するのかは自分でもわかりません。

だからロールパンナちゃんはくらやみ谷という荒れた場所でたった一人で生活しています。誰にも迷惑をかけないために。誰も傷つけないために。

 

人は誰しもが善悪を持ち、それを上手くコントロールすることが出来ない中で生きているものだと思います。つまり彼女はアンパンマンの世界の中で一番僕らに近い存在だなと思います。

愛と勇気だけが友達の完全「善」のアンパンマンと、対立する完全「悪」のバイキンマンの分かりやすい世界。子供の頃はきっとアンパンマンのようになるために、バイキンマンのようにはならないためにと学ぶんだと思います。だけど人は生きていく中で現実には100%善で出来ている人も、世界も存在しないことに気づく。

アンパンマンの世界は理想であり、幻想です。それらを偽善と呼ぶ人もいます。

そして、その理想の世界で、僕たちに一番近い存在のロールパンナちゃんはたった一人で生きています。

彼女が僕らに一番近い存在で、アンパンマンの世界が理想だとしたら、人は理想では生きられないという方程式になります。

 

ロールパンナちゃんは妹のメロンパンナちゃんのことをとても大切に想ってます。

そして、いつか一緒に暮らせる日を夢見てます。

これって凄いことだと思うんです。

自分の方が後から作られたのに姉にされ、産まれる前に悪の心を入れられ、望まない人生を強いられ、たった一人で生き"させられてる"のに、そんな境遇を恨むことなく、いつか「理想の世界」で生きたいと願っている。

 

人は環境を決められません。

これを読んでいるあなたにも、多かれ少なかれ理想があり、現実があると思います。

家庭環境、出身地、親兄弟、或いは性別、容姿、体質、体型、或いは運動能力や知能さえ、人生の多くは産まれた時に決められている、決まっている。

それを受け入れながら、時には抗いながら、「理想の世界」に近づけるように自分の人生を歩んでいく。

大袈裟にいうのなら、それが生きるってことだと思います。

 

ロールパンナちゃんはきっと今もくらやみ谷でひっそりと生きています。

誰も傷つけないために。

だけどそれは自分が傷つきたくないからだとも思います。

大切な人を傷つけてしまう事実で、自分自身が傷つくことを恐れている。

メロンパンナちゃんもロールパンナちゃんのことが大好きです。彼女の悪の心の存在も知った上で、一緒に住みたいと願っています。それはきっとメロンパンナちゃんには傷つく覚悟があるから。

彼女に一番必要なのは、大切な人を守る力でも、自分の中の悪の心を律する力でもなくて、自分が傷つく覚悟なのかもしれないなと思います。

 

もしかしたら、人が生きていく中で理想の世界に近づくために一番必要なのも自分が傷つく覚悟かもしれないなと、ロールパンナちゃんの話を聞いてそう思いました。

 

 

皆さんが良き一年を歩めますように。

今年もよろしくお願いします。

「否定しない」ということ。

 

否定しないというのはとても難しい。

人は自分のことすら簡単に否定してしまうから。

例えばテスト、試験、試合…学校でも会社でも、新しい何かを始めなければいけない時に、多くの人は「駄目だ」「出来ない」「大変だ」という思考になる。勿論「大丈夫」「絶対に出来る」という風に考える人もいるけど、その自信が持てるのはその裏に沢山の努力や練習があるからこそ。逆に言えば自分自身を肯定するためにはそれだけの練習量が必要だし、それだけ練習をしてもまだ自分を否定してしまう人もいる。

 

どうして否定しないというのは難しいことなのかなと考えてみた。

これは日本人の性質もあるかもしれないけど、人はどんなものでもどんなことでも、何かをフラットな目線で見た時に、その物事の「悪いところ」は簡単に見つけられるのに「良いところ」を見つけるのは難しいからなのかなと思った。

 

人が新しいものになかなか食指が動かなかったり、時には初見から嫌悪感すら感じてしまうのも、そのものに対しての悪いことが先に見えてしまうからなんだと思う。

スルメ曲という言葉がある。最初はいまいちだと思っていた曲が何度も聞いてる内に曲の良さに気が付いて好きになっていくという意味だ。

これもまさにそうゆうことなんだろうなと思う。

最初は悪いところが見えて好きになれない。だけど聞いてるうちに良いところが見えてきて、好きになっていく。

 

悪いところを見つけるのは一度目。良いところを見つけるには何度も。

それだけどんな物事でも良いところを見つけるのは難しいってことなんだと思う。

 

「+1」と「-1」は同じ「1」でもその質量は全然違う。

イメージでは単行本と広辞苑くらい違う。缶コーヒーと2ℓのペットボトルくらい違う。

最近SNSでの誹謗中傷が原因で自殺をするニュースをよく目にする。

100の肯定的な発言があっても、1の否定的な発言がその人の心を苦しめる。

僕もフォロワーに魅力的なツイートをする人がいるけど、それ故に拡散されて多くの人の目に止まり、結果批判的なことも言われて心を痛めてしまってることもあった。

それだけ+1に比べて-1の質量は重い。

 

質量が重いからこそ見つけやすい。分かりやすい。

 

少し前にこんなツイートをした。

 

『自分の好きなものの魅力を人に伝えるのって結構な労力だと思う。自分が楽しむだけの分には必要の無いことを、労力を使ってどれだけ魅力的なのかを伝えようとしてくれてる人、そーゆーツイートをしてる人を僕は好き。』

 

これも-1に比べて+1の質量は軽くて伝えるのが大変だと思ってるところから出た発言だ。 

好きなものを好きというのは簡単だ。だけど、どこがどう好きなのかを相手に伝えるのはとても難しいことだと思う。

逆に嫌いなものは伝えるのが簡単だ。簡単な方に逃げて批判をする存在だと思ってるから、僕はアンチを稚拙だと思うし好きではない。

 

 

少し話がそれた。時を戻そう。

だから、僕は否定しないというのはとても難しいことだと思う。

 

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もしあなたが誰かから相談を受けたらどう返すだろうか。

例えばダンス部に通ってる学生から「創作ダンスが上手く出来ない。人前に立つと緊張して上手く力が発揮できない」と言われたら。

その人が自分にとって大切な人だとしたら。

 

その人が大切な存在であればあるほど、その悩みを解決してあげたいと考えると思う。

どうすれば上手く出来るか。どうすれば緊張せずに出来るかと考えると思う。

僕もそうするだろうなと思った。

 

僕は最近Bishってグループが好きでずっと過去を追ってるんだけど、この悩みはBishのメンバーがラジオの中で実際にリスナーから受けた相談だ。

 

アイナはラジオの中で彼女の悩みに対して「上手く出来ない感情もダンスで表現できればいい」といい、「緊張出来る人生ってなかなかない。その緊張も楽しめればいい」と答えた。

 

www.youtube.com

 

なんて素敵な答えなんだろうと思った。

 

相談を受けると、その悩みを解決したいと考える。悩みを解決するために、こうすればいい、ここをなおせばいいとアドバイスをしようとする。

だけど、改善策を提示するのは大局的にみるとその人の今までの人生を「否定している」ことになるんだなと、このラジオを聞きながらそう思った。

悩みを解決するために何かをすればいいと言うのは、その人がそれを今までしてこなかったことを否定しているとも言える。

アイナは彼女を「否定しなかった」

緊張してしまうと悩む彼女に、緊張しない為にどうするのかではなく、緊張することを楽しめればいいと答えた。しかもただ否定しないだけじゃない。言葉の中に彼女が納得できるだけの説得力を持たせた。これが一番凄いことだと思った。

アイナは彼女が納得出来るだけの言葉を使って、全力で彼女の人生を肯定した。

 

僕はますます彼女が好きになった。

 

 

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欅ってかけない?の番組の中で、大園玲が澤部の悩みを解決すると提案した。

澤部が「優柔不断な自分をどうにかしたい」と悩みを相談すると、彼女は澤部に「直さなくていいと思います」と返した。戸惑う澤部に対して続けて彼女はこう続けた。

「芸人さんという道を選ばれたり、奥さんとご結婚されていたり、人生において重要な場面ではきちんと決断されているので、日常生活の小さなことで迷ってしまう自分を責めずに、選択肢にあふれている人生を楽しんでください」

 

news.yahoo.co.jp

 

なんて素敵な答えなんだろうと思った。

彼女もアイナと同じで、澤部の人生を決して否定しなかった。

その答えも凄く好きだった。澤部の人生を肯定した上に、「選択肢にあふれている人生を楽しんでださい」と付け加えた。

澤部の悩みを否定せずに解決した上に、やさしさで背中を後押しした。

 

僕は彼女が好きになった。

 

 

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否定しないといえば最近ぺこぱが否定しない突っ込みで世間を騒がせた。

突っ込みというのは職業柄「否定する」のが仕事みたいなものだと思う。

ボケに対して「間違ってるよ」ということを観客に分かりやすく伝えることで笑いを生む。間違いを正すというのはそのボケを否定していることとも言えるかもしれない。

だからぺこぱの否定しない突っ込みというのは新しくてそれが面白い。

それに対してオードリーの若林がラジオでコメントをしていた。

 

若林正恭)いやなんか、うん。言うならば、多様性とツッコミって相性が悪いと思うのよ。何か常識が強い時代の方がツッコミって強いけど……なんか多様性とツッコミって食い合わせが悪いから。「そんなことができるのか!」っていうか、そういう思いがまずびっくりしたのがあって。要するにツッコミって指摘とか否定だったりとか。「非常識ですよ」って言うことなんだと思うんだけど。そういうことって「多様性を飲み込む、受け入れる」ということに対してめちゃ相性が悪いと思うのね。

春日俊彰)うんうん。

若林正恭)で、じゃあどうしたのか?って言ったら、その1回ツッコミしかけるじゃん。ツッコミをしかけた後で飲み込むっていう。そこの1個のツッコミの中でフリと……まあ緊張と緩和を使い分けると、こんなに伝わるんだっていう。まあ、あとキャラも込みでね、全肯定をするような。で、そしたら俺、「この子はめちゃくちゃ優しい子なんだろうな」って思った瞬間にボロボロ涙が出て来て。で、爆笑してんだけど、もう泣いちゃって。

miyearnzzlabo.com

 

 

僕はオードリーとアイドルって滅茶苦茶相性がいいと思っていて、その理由がこれなんだけどこれは前にフォロワーとDMでやり取りした中の一文。

 

f:id:naotoasuka:20201108165438j:image

 

若林はぺこぱの漫才で泣いたと言っていたけど、若林もぺこぱと似てる部分はあると思う。だからこそ悩んでいたところもあるんだと思う。

 

だから僕はオードリーが好き。

 

 

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これまでずっと否定しないことについて語ってきた。

誤解して欲しくないのは、僕は決してそれが正しいと言ってる訳ではない。

テストや試験に向けて「駄目だ」「出来ない」と自分自身を否定しても、それを糧に努力をする人もいると思う。悩みに対して新しいアドバイスをするのも優しさだし、その方がその人にとっていいってこともあると思う。

 

ただ…

 

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僕のブログの中ではもう何度も登場させて申し訳ないんだけど、「やさしさとは」にこんな歌詞がある。

 

やさしさとは何なんだろう?君を慰めることか

あるいは涙の理由を何も聞かないことか

 

涙してる人に対して、その涙を止めようと慰めることはそれもまたその涙を「否定している」と言えるかもしれない。

決してそれを間違っているとは言わない。

 

ただ…

 

3期生が初めて参加した5th YEAR BIRTHDAY LIVE、まいやんは泣きながら舞台裏にはけようとした桃子の手を引っ張りステージに連れ戻した。

飛鳥ちゃんは舞台裏で泣きじゃくる桃子を爆笑しながら抱きしめた。

2人とも決して彼女の涙を否定しなかった。

 

否定しないことが正しいとは言わない。

ただ、僕はそうゆう人が好きみたいだ。

 

だから僕は

卒業生は白石麻衣推しだし

乃木坂は齋藤飛鳥推し

櫻坂は大園玲推しで

日向坂は若林正恭推しです。

『僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46』の感想。

 

人の能力、性格を決めるのは遺伝なのか環境なのかの論争は長年に渡って繰り広げられてきた。

ある研究者は「人間の心理的な発達に1番影響を与えるのは遺伝である」と主張し、ある学者は「環境が人を作る」と主張してきた。

だけど最近脳科学によってこの長年の疑問に答えが出たらしい。

その答えは「遺伝と環境、人に与える影響は半々」

いやそりゃそうだろと思うけど、なんとなくそうなんだろうなと思ってることも賢い人が「脳科学で証明されたで。どや」と言うと説得力が増す。

つまり何が言いたいのかっていうと、人格を形成するのには環境も大きく影響するってことです。

 

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個人、団体、集合体、固有名詞…人はそれらに自分の中で勝手にイメージを作る。

例えば偏差値の高い学校の名前を聞くとそこの学生は頭が良い印象を持つし、バスケが強い学校の名前を聞くとその学校のバスケ部の子はバスケが上手いという印象を持つ人が多いと思う。

例えばIT企業で働いてると聞くとインドアで内向的な印象を持ったり、大阪出身と聞くと関西弁で明るい性格という印象を持つかもしれない。

人は「その人」を知る時にまず「その人のイメージ」を作り出す。その後に自分の中のその人と本当のその人とを照らし合わせながら時間をかけて答え合わせをしていく。

 

乃木坂も少し前に「乃木坂らしさ」を模索している時期があった。この乃木坂らしさも、乃木坂の色であり、イメージであり、ある意味では先入観でもある。

今、乃木坂らしさと聞くと、優しい、仲がいい等をイメージするかもしれない。

日向坂らしさと考えると明るい、面白い等だろうか。

では欅坂らしさってなんだろうなと考えた時に、パフォーマンス力、楽曲やダンスのかっこよさ等が思い浮かぶ。

だけど僕はこのイメージがどうしてもしっくり来ない。

例えば乃木坂で言えば優しい、仲がいいというのは白石麻衣を初めとした乃木坂を先導していったメンバーのイメージがそのまま乃木坂のイメージとして定着している。

日向坂も、佐々木久美や加藤史帆の作り出したイメージに他のメンバーも同調することで明るく面白いグループという印象を持ってると思う。

乃木坂も日向坂も「グループの中にいるメンバーが作り出した環境」がそのままグループのイメージとなっている。

だけど欅坂と聞いて思いつくイメージは、欅坂のメンバーが作り出したイメージではなくて「欅坂を作った大人」が作り出したイメージだ。

彼女達が望んでそうなったのではなくて、『大人達に支配されて』そうなった。

だから僕の考える欅坂への印象は、どことなく無機質な、人工的な、機械の歯車的な印象になってしまう。それがしっくり来ない理由なんだろうなと、欅坂に対して漠然とそんなイメージを抱いていた。

 

欅坂らしさってなんだろう。

また、タイトルにある「僕たちの嘘と真実」の「嘘」とはなんだろう。

そんなことを考えながら映画館に足を運んだ。

 

 

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※ここから先は映画のネタバレも多く含みます。ご了承ください。

 

初めに言っておくけど僕は欅坂について殆ど知らない。

ライブ中に平手が演出を無視して花道をセンターステージまで踊りながら駆けてステージから落下した事も、センター不在の二人セゾンで間奏のソロダンスを小池美波がアドリブで踊ったことも(映画の中でこのシーンが1番感動した)、この映画を通して初めて知った。

 

だからこれはあくまでも「映画を見ての感想」になることを最初に保険として書いておきます。

 

映画を見ながら最初に思ったことは(この映画はドキュメンタリーというよりも作品に近いな)だった。

まず感じた違和感は彼女達へのインタビューだ。

彼女達がインタビューを受けている場所は、地上が見渡せる高層ビルの一室であったり、キャンバス、大きな本棚の傍ら、お洒落な飲食店など様々で、それらは彼女達のイメージに合わせた場所なのかもしれない。それはいいんだけど、僕が気になったのは彼女達のインタビューを受ける姿だ。

ドキュメンタリーのインタビューなら、彼女達の本音を引き出したい筈、その為には自然体な姿で応答するのがベストだと思うし、画としてもそう映すのが自然だと思う。だけど映画内での彼女達は、椅子に座ってる子もいたけど、椅子があるのに立ったままだったり、寄りかかったり、様々な姿で質問に答えていた。これは見せ方、「画」にもこだわった製作者側の演出だと思った。

それはつまり、「このインタビューは自然体ではなく、製作者によって作られた演出の上で答えられてる」んだと監督からの隠れたメッセージのように僕には思えた。

これは僕が映画を見る前に「この映画はノンフィクションで作られたフィクションだ」という欅坂のファンの人のツイートを見た影響もあるかもしれない。

 

勿論彼女達の言葉に嘘はないと思う。ただもしこのインタビューの形も理由があっての演出だとしたら、映画全体が「大きな嘘」で覆われているような、そんな印象を抱えながら映画を見進めていった。

 

映画は終始インタビューを挟みながら「ライブ」と「MV撮影」を追っていく。

欅坂の歴史の中には他にも多くの出来事があったと思う。それらを全て排除しながら、ひたすらライブに特化した進行をしていく。それも僕がこの映画を「作品」だと思った理由の一つ。

 

そして映画の中心にいるのは平手友梨奈の存在。

映画の中での平手は傍若無人で唯我独尊、孤高の存在として画かれている。

冒頭にも書いたがライブ中にアドリブでセンターステージまで駆けて落下し怪我。その後のライブを欠場。

「納得のいくパフォーマンスが出来ない」とライブを直前に出演拒否。

「曲の世界観に入り込めない」と自分がセンターのMVの撮影に参加しない。

 

そんな状況の中で平手の穴を埋めるように必死にパフォーマンスをするメンバー。

映画は徹底して「平手友梨奈」と「他のメンバー」の構図を取ったまま進んでいった。

 

 

僕は映画を見ながら、欅坂はアイドルというよりもアスリートに近いなと思った。

 

楽曲もダンスもMVも全てがあまりにも良すぎてファン以外にも様々な方面から注目を浴びたサイレントマジョリティー。

 

映画の中にはデビュー当時のまだあどけない平手の映像もあった。

自分が言わなければいけないセリフを何度も何度も繰り返し練習する。

本番直前まで、現場につくまでの移動中も練習を繰り返す。

与えられた課題を自分が納得がいくまで何度も練習をして、完璧な状態を披露したい。それが平手の根っこにある性格なのかなと感じた。

その性格と、最高の評価を受けたデビュー曲。そしてセンターの重圧、責任。

色々な要素が合わさった欅坂での環境がその後の彼女の人格に影響を与えていったように思えた。

 

常に過去を越えなければいけない。そうやって彼女はハードルを上げていく。

そして彼女が上げたハードルを必死に超えようとする他のメンバー。

上げ過ぎたハードルは飛び越えるのが困難になり、しがみつき、よじ登るように超えるしかない。

それでも必死に超えようとするメンバー。そして超えるのを諦めたメンバー。

その状況がまるでアスリートのように見えた。

 

平手は自らを磨き上げていくのにあたって決してメンバーと同調しない。

そんな平手の様子を見ていると獅子の子落としを思い出した。

獅子の子落としとは、獅子は千尋の谷に我が子を落とし、這い上がってきた強い子だけを育てるという昔のことわざだ。

平手は必死についてくるメンバーを蹴落とすことはないが、手を差し伸べることもない。

ただ黙って山の頂上に立っている。そんな画が頭に浮かんだ。

 

映画の中では、パフォーマンス後の平手をスタッフやメンバーが抱えて歩くシーンが何度かあった。

満身創痍の平手は歩くこともままならずに両腕を抱えられて引きずられていく。その姿がとても印象的だった。

どれだけ満身創痍になったとしても支えられながらなら歩くことくらいは出来ると思う。誤解して欲しくないが、彼女がわざとそうやってるって言いたいわけじゃない。嘘をついてるって意味じゃない。

全力を尽くしてのパフォーマンスを披露した後、裏に戻ると周囲の支えに全体重を預ける。普段は周囲に同調しない彼女が、この時は赤子のように全てを預ける。

この対比が印象的に映った。

人との距離の取り方が不器用な人なのかなと思った。 

グループの価値を上げようとしての行動も不器用になってしまったのかなと思った。

 

 

秋元康のグループにおいてセンターというポジションは特別な意味を持ってると思う。

中学生でセンターに抜擢されて、年上のメンバーを後ろに従えて、「センター平手友梨奈」が確立していった。

完璧な作品を求めたい。だけど他のメンバーに自分の望みは強いれない。

その環境が少しずつ蓄積された結果、孤立に繋がってしまったのかなと思った。

 

ーーー

  

 

映画の終盤、黒い羊のMV撮影のシーンがあった。

僕はこの曲が凄く好きなんだけど、二時間映画を見てきた後にこの曲を聞いた時に、今までとは全く違う思いを抱いた。

「まわりと違うそのことで誰かに迷惑かけたか?」

凄いブラックジョークだなと思わず笑ってしまった。

映画の中で平手は迷惑をかけ続けてきていた。二時間フリをきかせて最後に「誰かに迷惑かけたか?」と聞いてくる。この流れも監督の意図だとしたら、とんでもなく皮肉を効かせてるなと思った。

MV撮影後倒れこむ平手に駆け寄るメンバー、その中で一人だけ輪の外からその光景を眺めている鈴本美愉の構図が印象的だった。

 

 

 

僕はこの映画を見る時に欅坂らしさってなんだろうってものが見えればいいなと思っていた。だけどこの映画を見ながら感じた彼女達へのイメージは

「葛藤」「戸惑い」「我慢」だ。

 

孤高の天才、平手友梨奈に振り回されるメンバー。

だけど誰一人平手に文句を言うメンバーは居ない。

平手ありきの欅坂だから。平手が居たから今の欅坂があるから。

誰もが平手の圧倒的なパフォーマンスに納得してる。平手は自分たちよりはるか先を見ている。納得出来ずに参加しないのも、パフォーマンス維持の為になら仕方がない。

 

僕は正直この状況は異常だなと思った。

さっき僕は彼女達はアスリートに近いなと言った。

だけど、欅坂に「アスリートになりたい」と思って入ってきた子はきっと一人もいない。 

自分の中の理想像があったはずだし、こうなりたいって思いもあるはずだ。

勿論インタビューの中での平手に対するメンバーの言葉に、想いに、嘘はないと思う。

平手に対して感謝も、尊敬もあると思う。

だけど、別の感情もあるはずだとも思う。もっと寄り添ってほしい、もっと仲間として活動したいという思いもあったかもしれないし、そこまでのストイックさは本当に必要なのか、私たちはアイドルなんじゃないのかって思いもあったんじゃないかなと思う。

 

だけど誰一人それを口にはしない。

 

平手に対してのコメントを求められて 菅井友香は「自分がイメージしていたグループとは違う」と答える。守屋茜は「バックダンサーなのかと思う時期もあった」と答える。

それでも平手の行動は納得出来ると。それは納得するように自分に言い聞かせてるようにも見えた。

 

 

僕がこの映画の中で一番印象に残ってるのが小林由依へのインタビューでの一言だ。

 「私が思ってることと、みんなが思ってることが違うと感じることが多いので、話しずらい」

具体的に何に対してなのかは触れなかったけど、そこまでの流れから平手友梨奈について聞かれての答えなんだと思えた。

この言葉を聞いた時に彼女だけが唯一本音を語ったなと思った。

周りが誰一人言わない自分だけの意見を言うのは凄く勇気がいることだ。はっきりと言及したわけではないけど、見る人には伝わるように自分の意見を映画のインタビューって状況で言葉にした彼女は凄いなと思った。

僕は彼女の言葉を聞いた時にある曲の歌詞が頭に浮かんだ。

 

『誰かのあとついて行けば傷つかないけどその群れが総意だとひとまとめにされる』

 

彼女達は知らない間に、平手友梨奈についていこうとしていることで、自分たちがサイレントマジョリティー(物言わぬ多数派)になってしまっていたんじゃないか。そして、その状況の中で小林由依だけが『No』と言ったんじゃないのか。そう思った。

 

そしてこれこそが『僕たちの嘘と真実』なんじゃないのかなと思った。

 

 

 映画の最後に「誰がその鐘を鳴らすのか」のパフォーマンスがあった。

センターに立つのは小林由依。そこに平手友梨奈の姿はない。

だけど僕はこの曲のパフォーマンスが一番感動した。胸を打った。

彼女達が作り上げてきた欅坂の姿があるように見えた。

 

ーーー

 

僕は、ドキュメンタリー映画は製作者側の感情は出来るだけ削いで俯瞰で撮るのがベストだと思う。感情を込めずに「事実」だけを記録として見せる。感想は視聴者が各々の価値観で判断する。

それに伴ってインタビューも主観ではなくて出来るだけ客観的に視聴者が求めてるであろう質問をするべきだと思う。

 

映画の中でこれは主観的だなと思う質問が一つあった。

TAKAHIROへのインタビューで、インタビュアーが「大人の責任ってなんだと思いますか?」と聞いた。それに対してTAKAHIROは言葉を選びながら「見続けること」と答えた。

製作者として、欅坂を俯瞰で追い続けて、その中で何が起きても疑問を呈することなく映像として記録を撮り続ける。

欅坂を唯一外部から見続けてきた結果、その中でどうしても聞きたくなったことが「大人の責任」なんじゃないのかなと思った。

 

たった一人の少女が、欅坂に関わる全ての人間を翻弄していく。

納得が出来るパフォーマンスが出来ないとコンサートを休むアーティストを僕は知らない。自分がセンターのMVの撮影に来ないアーティストを僕は知らない。

その状況を作り出したのは平手友梨奈ではなく、大人だと思う。

だから大人の責任を問いただしたかったんじゃないかなと感じた。

その質問の裏側に隠れた意図が分かったからTAKAHIROも答えに詰まったんじゃないかなと、そして出した答えが「見続けること」になったように見えた。

 

 

僕は何度も「映画の中では」と言ってきた。

平手は決して傍若無人なだけの人ではないと思う。ライブを休んだのにもMVを休んだのにも彼女なりの理由があったはずだと思うし、彼女の行動の全てには映画には映されなかったもっと多角的な理由があるはずだと思う。

だけど映画ではそれらを一切排除してる。

まるで弁護人がいない裁判で検察側が一方的に事実だけを述べているような、そんな印象を持った。見る人によっては誤解されてしまうような、そんな作りになってるなと思った。

 

誤解を招くリスクを取ってでも平手と他のメンバーの構図を強く見せてきた理由。

それは彼女達の未来に繋げる為なのかなと思った。

新たなグループへと変貌を遂げようとしている彼女達。

欅坂からの脱却は、平手友梨奈からの脱却であり、サイレントマジョリティーからの脱却でもある。

サイレントマジョリティーで始まって、誰がその鐘を鳴らすのかで終わる欅坂の物語。

その歴史を色濃くするために、この構図を強く見せてきたのかなと感じた。 

平手友梨奈に必死で食らいついてきた結果、彼女達自身が胸を打つパフォーマンスをする集団へとなった。それは彼女達が望んでいた世界ではなかったとしても、間違いなく彼女達の魅力であり、武器となった。

 

グループ名が変わることを発表する時の菅井友香の「欅坂46で培った経験がきっと私たちを鍛えてくれています。ですので、この経験を信じてまた新たに強く強いグループになることを約束致します」というコメントが印象に残った。その通りだなと思った。

彼女達が欅坂で経験してきたことは決して無駄じゃない。全てが土台となって、新たなグループへと変化していく。そう思った。

 

だから僕が映画を最後まで見て思った欅坂らしさは、「努力」「真摯」だ。

何が起ころうと現実と真摯に向き合い、努力した結果の積み重ね。それが誰がその鐘を鳴らすのかのパフォーマンスに繋がってるように見えた。

 

欅坂から新たなグループへと変わるまでのストーリー。

この映画全体が、事実であり、物語でもある。

それもまた、タイトルの「嘘と真実」の中に込められてるのかなと思った。

 

ーーー

 

先日新たなグループ名が『櫻坂』になると発表があった。

イメージカラーは白。

白色は勇気がいる決断だなと思った。

正直、欅坂は白とは言い難いイメージだと思う。

欅坂にそんなに詳しくない僕でも、スキャンダル、相次ぐ卒業、運営のファンとの向き合い方、色々な面でグレーなイメージが強い。

 

ただ、白色からは強い意志も感じた。

 

もう誰がしたのかも覚えてないけど、昔見たツイートで強く印象に残ってる言葉がある。

『オタクは過去を

アイドルは今を

運営は未来を見ている』

ファンが見るのはいつだって過去の出来事。

決定されて、作られて、世に出た作品を見ることしか出来ない。

アイドルが見ているのはその時。作品を作り出すその瞬間。

運営は未来。作り出すのが仕事だ。

その環境も相まってか、ファンは過去を見がちな傾向にあるとよく感じる。

過去にこんな出来事があったから、過去にこんな発言があったから。その印象を強く持って批評してるなと思う。

 

だけどアイドル、運営が見てるのは今であり未来だ。

過去に何があったかよりも、今、未来どうしていくのかを考えてる。

その価値観の相違が食い違いを生んでるんだろうなと感じることがある。

 

ブログ冒頭で僕は「人格を形成するのには環境も大きく影響する」と書いた。

これは僕の偏見かもしれないけど、正直、欅坂はアイドルにとって「アイドル」を続けるのに難しい環境にあったように見える。実際のところは分からないので勝手な推測になるけど、スキャンダルや卒業の多さもそれが原因の一つのように思う。

だけどその難しい環境の中でも「真摯」に「努力」してきた子が、今『櫻坂』となった。

だから、あえてイメージカラーを「白色」にした。

「過去」ではなく「今」を、「未来」を見てほしい。そんな強い思いが込められてるように思えた。

 

 

菅井友香がコメントした通り、櫻坂は強いグループだと思う。

真摯、努力は欅坂らしさだったかもしれない。だけど本当の彼女達の魅力はまだ他にあるはずだ。

欅坂で培ってきた経験を乗せて、きっとこれから新しい櫻坂らしさを見せてくれる。

まだ何色にも染まってない櫻坂を美しく染め上げてほしいなと思う。

願わくば運営の色ではなく、彼女達の色で。

 

いじめと自殺と加虐心。

 

※滅茶苦茶重いタイトルになってしまったけど、内容はそこまで重くはないです

 

 

僕には好き嫌いがない。

好き嫌いなくなんでも食べられることは、子供だったら親に偉いねと褒められるようなことかもしれない。だけど別に僕が嫌いなものがない理由は偉くもなんともない。

僕の自論だけど、感覚は特殊な例を除いてほぼ全ての人が共通して持っているものだと思っている。

ほぼ全ての人が殴られれば痛いと感じるし、南極に行けば寒いと感じるし、腐敗臭を嗅げば嫌な臭いだと感じると思っている。

つまり、例えばここにトマトがあったとして、このトマトを美味しいと感じる感覚を持ってる人がいるということは、その感覚は僕も持ちうる感覚だと僕は考える。

もし食べられないものがあると言うことは、それを美味しいと感じる感覚を僕も持っているのにそれに気が付けてないってことだと考えてしまう。それは損した感じがする。

だから僕は好き嫌いがない。いうなればただの貧乏性です。

 

ーーーー

 

僕が好きなラジオ番組の「高橋みなみ朝井リョウヨブンのこと」の中で最近新しく『私から出た加虐心』というコーナーが始まった。

加虐心とは「苛めてやりたい、という感情。 痛めつけるなどして苦しめてみたいと感じる心情などを意味する表現」Google先生より。

このコーナーが始まるにあたり、何故こんなテーマでメールを募集したのかを朝井リョウが語っていた。

ざっくりと要約すると

「加虐心は自分に近しい感情であり、自分の中に誰もが潜めている気持ちであることに自覚的であるべきである」

「「優勢思想」が反転する瞬間は誰でも持っている」

「テレビの識者やメディアはこーゆー事件はよくないとかこんな考え方はよくないと言うけど、その思想は全員持ってる」

 

中卒の僕が彼の言っていることを全て把握できているとは思わないけど、僕も聞いていて確かになと思った。

ニュースでも学校でも、「犯罪はよくない」「いじめはよくない」

と伝えられ、教えられる。

だけどこの教え方は危ないんじゃないかと僕は思う。

僕も、これを読んでいるあなたも、犯罪を犯す可能性も、いじめに加担する可能性も秘めている。犯罪者は特別な人間じゃない。全ての人が犯罪者になりうる可能性を秘めている中で、それを律することが出来ている人が犯罪を犯さずに生活を送っている。

 

開き直りや反発心は犯罪を助長する原因の一つじゃないかなと思う。

「犯罪はよくない」「いじめはよくない」

そう教えられると、犯罪を犯したくなる衝動にかられた時に「自分はよくないことをしてしまう人間なんだ」と考えてしまう。

そもそもが人間は残虐性を持った生き物だと思う。

人類が「平和」を謳うのは、平和を謳わなければ平和を保てないからだ。

「自分はよくないことをしてしまう人間だ」と自覚した時に、それを律することが出来る人はいいけど、そうじゃない人は「犯罪はよくない」という教えに反発しようとする、或いは開き直る。それが犯罪を助長してしまうんじゃないかと僕は思う。

或いは「よくないと言われていることが出来る俺カッコいい」と、自分は特別な存在だと勘違いする。

誰も出来ないことをやれる自分は凄いと。

だけど本来はそうじゃない。全ての人が持ってるけど抑えることが出来てるものを我慢が出来ない弱い人間が犯罪を犯し、人を傷つける。

 

最近はSNSを使って人を傷つけ、自殺に追い込む事件も目にするようになった。

時代は変わっていく。SNSはなんでも言っていい場所という時代はもう過ぎた。

それに気が付けない一部の人間が、「思ったことをズバズバ言える俺って凄い」と勘違いし、平気で人を傷つける。

 

暴論を言うと、本来は(人を傷つけてしまうような内容の)愚痴や文句はツイートするべきじゃないと思う。僕も時々文句じみたツイートをしてしまうけど、それらは全て人の弱さだ。多くの人が思っていても書かないことを書いてしまう。本来はするべきじゃないことをしてしまう。それは「犯罪」「いじめ」をしているのと同じことだと思う。

 

 

冒頭で僕は感覚は全ての人が共通で持ち合わせているものだと書いた。

それは加虐心もそうだけど、逆に言えば弱い心もそうだ。

自殺をした人と同じ心を全ての人が持っている。

もし自殺をした人と同じ状況になっていたら、僕も貴方も自殺という選択肢を選んだかもしれない。

 

僕は以前に「自殺の是非について論じるつもりはない」的なツイートをした。

僕は皆に比べて人生を経験してきているからか、それとも底辺を生きているからなのか、原因はなんとも言えないけど、自殺をした知人が多い。

麻雀仲間、ネットで知り合った人、昔の職場の先輩、知人の知人。

 

今回の趣旨とはかなりずれるけどいい機会だから少し吐き出すと、自ら死を選ぶ人は明日も生きていこうと考える人とは思考がかなり違っていると感じる。

僕の知人の自殺方法は、睡眠薬、首つり、身投げもあるけど、自らの身体に火をつけたり、切腹をした人もいる。

もし僕が死ぬとしたら、なるべく辛くない方法を選ぶ。この思考がすでに違うんだなと思う。腹を切ったら痛いだろうなとか、燃えながら死ぬのは辛いだろうなとか、本気で死のうとしてる人はそんな事は考えない。

 

逆に言うと、自殺をする人は精神的にそこまで追い込まれているということだ。

自ら死を選んだ人に対して、明日も生きていこうとしてる人が自殺の是非を論じるのは無意味だと僕は思ってしまう。自分の身体に火をつけてまで死のうとした人の気持ちを、生きようとしてる人間が分かるわけがないと考えてしまう。だから僕は自殺の是非を論じるつもりはないとツイートした。

 

そして、その人達と同じ心を誰もが持っている。

この人になら言っていいとか、ここまでなら言っていいとか、そんな物差しはどこにもない。

自殺の是非は論じるつもりはないけど、そうならない為にどうするのかを考えるのはとても大切なことだ。

 

僕も、これを読んでいるあなたも、加虐心も持っているし、弱い心も持っている。

全ての人がそれを認めて受け入れて生きることが出来ればいいなと思う。

そうすれば世界は平和になるのかもしれないなと思う。

別に世界平和なんて望んでないけど。

 

 

明日も飛鳥ちゃんが笑顔でいられますように(急な方向転換)(遅すぎて間に合わない)

『やさしさとは』の歌詞と乃木坂の楽曲から創作する君と僕の物語(後編)

 

ここまで読んで下さってありがとうございます。こちら本物の後編になります。

君と僕の物語もあと少しで終わりを迎えます。もう少しだけお付き合いください。

 

 

高一の時に『失いたくないから』の中で君を好きな気持ちに気が付いて、高二の時に『君の名は希望』の中でその思いは強くなって、君に告白をしようと決意した。

 

そして舞台は高校三年生、物語は『やさしさとは』に移っていきます。

 

彼は2人が喧嘩をしたら彼女からは相談を、リクからは愚痴を、2人が仲良くやってる時はリクからはのろけを聞くようになっていました。初めて手を繋いだ時のことも、初めてキスをしたことも、彼の気持ちを知らないリクは嬉しそうに彼に話します。

彼はそんな惚気話も自分の気持ちをリクにも彼女にも悟られないようにしながらちゃんと聞いてあげていました。自分の心を保つために、「道のこっち」から。

2人が付き合い始めて1年近くたったある日。高三の夏が終わり、部活が終わりを迎える頃、リクから相談を受けます。それは進路の事でした。

リクは陸上選手として強くなるために留学を考えていました。だけど彼女は同じ大学に進むことを希望している。どうすればいいかと。

彼には相談の答えを返すことが出来ませんでした。

真剣に悩むリクの言葉を、ただ適当な相槌を打って聞いたフリをしていました。

 

部活が終わると同時に、彼女と会話することも自然と減っていきました。

彼女がいるリクを遊びに誘うことも出来ない。なんとなく距離を取ったまま、2人がどんな感じでいるのかもあまり分からないようになっていました。

 

そして迎えた高三の冬。彼はリクから「彼女と別れた」と聞きます。あの時に相談された進路が原因でした。彼はリクの言葉を聞いて、相談を受けたあの時に、もっと親身になるべきだったんじゃないかと後悔します。

そして、彼女を好きな気持ちが2人の恋を心から応援することを拒んでしまっていたことに気が付きます。

好きな子がこんなにも身近で他の人を好きでいるのを見ているのはとても辛いことだと思います。だけど彼には彼女を好きな気持ち以上に、彼女とリクへの感謝の気持ちもあった。

あったはずなのに、2人の恋を心から応援出来ていなかった。

 

「一部始終を眺めてた道のこっちで冷静すぎたことがだめだったんだ。もっと感情的に僕が走れたらそうバスの時間に間に合った」

これが、「君が腕に抱えてた紙袋が破れてラ・フランスが転がった」ことを知った時の彼の気持ちです。

 

彼の心中は、彼女を好きな気持ち、好きを伝えられてない後悔、恋を応援出来なかった罪悪感が混ざって、複雑な感情になっていました。

リクから彼女と別れたと聞いて、彼女の元に行きたい気持ちは勿論あった。泣いていたら慰めて、悲しみが癒えるまでそばにいたい。だけどとても今の感情のまま彼女に会うことは出来なかった。

そして彼はここで気づきます。ずっと抱いていた彼女への恋心も終わりを告げたことに。

彼女がリクと別れたことを聞いて、俯瞰で君と僕の関係性を考えてみた時に、彼もまた彼女に思いを伝えることは一生出来ないんだと悟りました。リクと別れたことを知って、今更彼女に好きだと伝えたとしたら、そんなに安っぽくて薄っぺらい言葉はありません。

彼女の抱えてた紙袋が破れてラ・フランスが転がった時に、彼の持つ紙袋もまた破れていたのです。しかもその紙袋の中身は空っぽなままで。

そして彼は考えます。

「声を掛けないまま君を見送るだけ、その方が僕らはしあわせなんだ」と。

「小さな後悔」は彼女とリクの恋を応援出来なかったこと。

それも「思い出すのはやめにして、孤独を選ぼう」と。

 

そうして、彼は彼女ともリクとも距離を置いて、3人は離れ離れになったまま高校を卒業していきます。

彼が探しているやさしさの答えは、道のこっちで紙袋が破けるのを見ているのではなくて、道を渡って君の近くに行って紙袋が破れないように一緒に抱えてあげることだったのかもしれません。だけどいまさらその頃には戻れない。だから彼は「答えがみつからなくて、ただ歩くしかなかった」

僕が前編でこの歌の本質は「歩くしかなかった」所にあると言った理由がこれになります。

そしてこれが僕が余白を埋めた『やさしさとは』の君と僕の物語になります。

 

 

さて。

ここからが後編です。

僕と君はこの後どうなったのか。

 

ここからは完全に妄想です(ここまでも完全に妄想ですが)。多少飛躍もしてますが、これも一つの楽しみ方だと思って読んで下さると嬉しいです。

 

『失いたくないから』の中で彼女を好きになり、『君の名は希望』の中で君に告白しようと決意した。だけど彼女に告白することなく、『やさしさとは』の中で彼女への恋は終わりを告げました。

そして数年後。彼はまだ恋を引きずっていました。

 

舞台は高二の夏にさかのぼります。

九月初旬、夏休みが終わった所で彼は彼女を花火大会に誘いました。

そこで告白をしようと決意していた。

もし、もしあの時強引にでも彼女に告白をしていたら何か違う結果が生まれていたんじゃないかと、彼は今でも考えます。

彼女の告白を聞いた後、2人は花火を見ます。

どうして花火は思い出に残るんだろう。花火は一瞬で消えてしまうものだから、消える前に胸に焼き付けようとするからなのかな。今日の記憶も、消えてしまった花火のようにいつまでも残るのかな。

隣にいる彼女の手を繋ぐことも出来ずに、彼はそんなことを考えていたのかもしれません。

 

記憶に残るのは音と匂い。一緒に思い出すのは後悔。

あの日、君からリクのことを好きだと聞いて、僕は咄嗟に「応援するよ」と嘘をついた。

優しさを勘違いして、本当の気持ちを捨てた。

遠くの方で夏の終わりを惜しむように九月の蝉が煩く鳴いていた。

もしもやり直せるならどこまで巻き戻そうか。

君と初めて出会った高一の6月か。それとも君を好きになったあの夏か。

たった一つ、君に好きと言えなかっただけで、君と僕は違う空を見ている。

 

何年経っても彼の心の中の後悔が消えないのは、彼女に告白すら出来てないからだと思います。いっそのことはっきりと振られていればこんなに引きずることもなかったかもしれない。ただあの時の彼は自分の気持ちを隠すことが君へのやさしさだと、そう勘違いした。

そう考えて、彼はいまだに彼女への気持ちを引きずっています。

 

では彼女はどうなのか。

彼女もまた、リクへの思いが残っていました。

彼をまだ好きなまま離れ離れになってしまった。

風鈴の音が聴こえた夏、繋いだ手がちょっぴり汗ばんでいたけど、嫌われないように何度も繋ぎ直した。

知らず知らず彼との思い出の場所に足を運んでしまう。

あなたになんて会えないのに。

今だって、悲しいことがある度にあなたのやさしい顔を思い出してしまう。

 

だけど彼女は彼よりも前向きです。だから自分の気持ちを整理する時に『立ち直り中』と言っています。きっとリクとの恋に後悔はないんだろうなと思います。

 

 

この後の彼女の物語がどうなったのかは分かりません。

もしかしたら大学に入った後に、もう絶対に恋なんかするもんかと決めていたのに、友人の紹介で知り合った人に気づいたら片想いをしていたのかもしれません。

その恋はひと夏の長さより思い出だけが多すぎる恋になったのかもしれないし、設定温度のように一緒に暮らす恋愛になったかもしれないし、ありがちな恋愛のような結末を迎えたのかもしれません。

個人的にはありがちな恋愛のようになってるといいなと思います。夢の為にリクに別れを告げられた彼女が、今度は自分の夢の為に新たな恋を捨てていたとしたら面白いなと思うからです。

 

さて。

 

長々と書いてきた僕の脳内の物語もいよいよ佳境です。

 

『失いたくないから』で始まって『君の名は希望』と『やさしさとは』を経て『あの日僕は咄嗟に嘘をついた』で終わる彼の人生(物語)の中の主役は常に『君』です。『僕』は最初から最後までずっと『君』が大好きで、頭の中は君でいっぱいです。

 

一方、『やさしさとは』で恋が終わって『立ち直り中』から『気づいたら片想い』へと流れていく彼女の人生(物語)の中には『僕』は一切出てきません。

 

この2人の関係って、何かに似てると思いませんか?

僕は君を好きで自分の人生の主役に置いているのに、君の人生の中に僕は登場すらしない。

 

僕は、これってまるで『オタク』と『アイドル』の関係みたいだなと思います。

自分の好きなアイドルが、オタクの代わりに『僕』の代弁者として僕の想いを、物語を歌ってくれるから、乃木坂の楽曲は時として身に沁みて心に響くのかもしれないなと、そんな風に思いました(締め方が辛辣すぎる人)

 

以上で僕の創作した『僕』と『君』の物語はおしまいになります。なんとなく脳内にずっとあった物語をなんとか頑張って文章にしてみました。拙い文章で伝わりにくい箇所も多いですが、少しでも面白いなと思って頂けたら幸いです。

ここまでお付き合いして下さった方、長々と読んでくださりありがとうございました。

『やさしさとは』の歌詞と乃木坂の楽曲から創作する君と僕の物語(中編)

 

後半です。前半後半と分けたのは長くなったからってのもあるんですが、実は理由の一つにこのブログに書きたかったもう一つのテーマがありまして。

乃木坂の楽曲って「僕視点」の曲が多くありますよね。そしてこれは秋元康がそう考えてるのだろうってことではなくて、完全に僕がそう思ってるだけなんですが、この君と僕はいくつかの曲の中で同一人物なんじゃないかなって思ってます。

 

後半には、そんないくつかの曲の中に出てくる『僕と君』で僕が勝手に創作した物語を簡単に書いてみたいなと思います。そして勿論この僕と君は『やさしさとは』の中の僕と君になりますので、そう思って読み進めていただけるとありがたいです。

 

 

2人の出会いは高校一年生の時です。

彼は大人しくて人見知りで自分の感情を表に出すのが苦手。だから初めて出会うクラスメイトにも上手くなじめずに、入学して一番最初にあるイベント「友達作り」に参加することができないまま、ふと気が付くとクラスで孤立して一人きり。

このまま一人で高校生活を送るのかと彼も諦めていた。一か月、二か月と経つと次第に孤独にも慣れてきていた。

6月のある日、体育の時間。クラスメイトがサッカーをしてるのを校庭のはしっこで一人眺めていた彼の足元にボールが転がってきた。

誰かが拾いに来るだろう。彼はそう考えてボールから少し離れた。そのボールを拾ってクラスの輪に混じる勇気はなかった。

同級生の女の子がボールを取りに来た。駆けてきた彼女は少し手前で止まると、ボールから少し離れた僕を見た。慌てて目を逸らしても視線を感じた。そっと彼女を見ると、彼女は変わらずに僕をじっと見ていた。ボールを拾って彼女の足元に転がすと、彼女は「ありがとう」と笑顔で言ってきた。

 

これが僕と君との出会いになります。

心無いクラスメイトから「透明人間」なんて揶揄されてることも知っていた彼はますます心を閉ざしてしまい、クラスの誰ともなじめずにいました。孤独のまま高校生活を送ろうと思っていた彼に初めて笑顔を向けてくれたのが彼女でした。それから少しづつ彼の人生が変わっていきます。

 

翌朝登校すると、彼女が気になって自然と目で追っていた。視線に気が付いたのかは分からないけど彼女と目があった。勇気を出して「おはよう」と声をかけると、彼女も笑顔で「おはよ」と返してくれた。それから、少しづつ彼女と話すようになっていった。

彼女は陸上部のマネージャーをやっていた。

「僕も何か運動部入りたいんだよね」自分を変えたい気持ちがあった。何気ない僕のその言葉に目をらんらんと輝かせて「君も陸上部に来なよ」と誘われた。

「でも…」と悩んでると「大丈夫、君ならきっと出来るよ」と真っすぐな目で言われた。君に言われると出来るような気がしてきた。君の言葉には不思議な力があった。

 

彼女の強い誘いもあって、彼は陸上部へ入部することを決心します。

そして同じ陸上部の同級生とも話すようになり、彼にも高校に入ってから初めての友人が出来ました。友人はいわゆる陽キャでクラスの中心人物、だけど優しくて誰にでも分け隔てなく話しかけるタイプ。だから陸上を始めると言った彼ともすぐに打ち解ける事が出来ました。そもそもが彼を「透明人間」と揶揄していたのも一部の心無い同級生だけで、彼自身には大きな壁があったけどクラスメイトに疎外されていた訳ではなかった。だからそんな明るい友人と行動を共にすることで、次第に新しい友人も増え、彼にも笑顔も増えてきました。

ややこしくなるので彼の友人を陸上部から取って「リク」と呼ぶことにします(安易)

 

この頃の彼は今の自分の環境があるのは彼女のおかげだと感謝していたし、そうゆう意味では彼女に特別な感情は抱いていました。だけどそれが恋心だとはまだ彼自身気付いていませんでした。

 

部活にも慣れてきた夏のある日のこと。

立ってるだけでも汗が滴り落ちる中、失われた身体中の水分を少しでも補給しようと、水道の蛇口に顔を近づけて冷たい水を喉に流し込んでいた。

水を飲んでいると、眩しすぎる青空が斜めに見えていた。

煩い程に鳴く蝉の鳴き声が校庭をぐるりと囲んでいた。暑さからグラウンドは照り返して地面にはゆらゆらと蜃気楼が見えていた。ふと、一人だけ制服姿でスコアブックを抱えて、まっすぐに選手を見つめる彼女の横顔が目に入った。君の白いシャツとグレーのスカートが、蜃気楼のように切なく揺れていた。

「おーい、行くぞ」

リクに話しかけられるまで無意識にずっと彼女を見ていた。心がざわざわとしているのに気が付いた。それから、気が付くと彼女を目で追ってる自分がいた。

 

高校に入り、いきなり孤独を経験し、慣れない部活を初めて、きっと彼の心はまだいっぱいいっぱいだったのかなと思います。それが彼女のおかげで少しづつクラスにも打ち解けて、部活のしごきにもついていけるようになってきた。

人生に余裕が出来てくる中でふと彼女を見た時に、彼は彼女を好きになっていることに気がつきます。だけどまだ告白しようと考える、そこまでの余裕は持ち合わせていません。

 

テスト期間で部活がないある日。

彼は補習で居残り勉強をしていた。そこには彼女の姿もあった。それでもいつもよりも早く帰れるねなんて話して学校を出ると、雲が少しだけ影を縁取って、あっという間にざざーっと雨が降り始めて夕立になった。

君は学生鞄を頭に翳して慌てて走り出す。僕も後を追った。

軒下を見つけて二人で雨宿りをした。「ついてないね」って言う君のちょっと泣きそうな、だけど素敵な笑顔を見て、胸の鼓動が早くなった。君の笑顔を見ると心が満たされた。もし僕が君に好きだと伝えたら、この関係はどうなってしまうのかなって考えた。

この関係を失いたくないと思った。失うのが怖かった。だから、君を好きな気持ちは心の奥にしまっておこうと決めた。

テストが終わって部活が始まった。失われた身体中の水分を少しでも補給しようと、水道の蛇口に顔を近づけて冷たい水を喉に流し込んだ。彼女の事はなるべく見ないように意識した。

今日も水を飲みながら斜めに見えるあの青空が、僕の味方をしてくれている気がした。

 

彼は彼女を好きなことに気が付いてから、次第に彼女を意識してしまうようになっていました。そして尚更今の彼女との関係が失いたくないものになっていきます。彼女に好きだと伝えて恋人同士になることよりも、彼女との関係性が壊れることの方が怖かったんでしょうね。否定したって、瞼を閉じれば君が思い浮かぶのに。

 

きっとこの後も色々な出来事があったと思います。クリスマスをリクと二人で過ごして街を歩くカップルに嫉妬したり、バレンタインに彼女から義理チョコを貰ってリクと一緒に喜んだりしたのかもしれません。色々な出来事が起きた中で、彼の望み通りに君と僕の関係は保たれたまま、物語の舞台は高校二年生に移ります。

 

高2の夏。陸上部は夏休みも学校に来て練習を続けていた。

立ってるだけでも汗が滴り落ちる暑さの中で走ってると、君を好きになった去年の夏を思い出す。僕が君を意識したのは、去年の6月夏の服に着替えた頃だったな。

「あーあ、彼女欲しいな」「お前は好きな人いないのか?」最近のリクは口を開けば彼女が欲しい彼女が欲しいと言ってくる。お前は欲しくないのか?って。そんなリクの影響で、ずっと抑えていた君への思いが膨らんできてしまっているのが分かった。

あの時はこんなに君を好きになるなんて思っていなかった。失いたくなくてずっと自分の気持ちを抑えてきたけど、君への思いは募るばかりだった。その思いを、次第に君に伝えたい気持ちが強くなっていた。失うのは怖い。

だけど、もし君が振り向かなくても、その微笑みを僕は忘れない。

 

片思いをしていた一年間で彼女への思いは募るばかり。この関係性を失いたくない想いより、君が振り向いてくれなかったとしても自分の思いを伝えたいと、彼の心情は変わっていきました。そして彼は夏休み明けに勇気を出して告白することを決意します。

 

 

ここからは完全に妄想です(ここまでも完全に妄想ですが)、しばらくは楽曲とは関係ない中での物語になります。

 

彼は彼女を九月初旬に開催されている花火大会に誘います。

突然の誘いに驚いた彼女も、「実は私も君に聞いてほしい話があるんだ」と彼の誘いを承諾します。彼女の言葉にほんの少しの期待を抱きながらの花火大会当日。彼女の浴衣姿に見惚れたりしながら一緒に夏祭りを楽しみます。一緒に花火を見た後に告白しよう、彼はドキドキしながらその時を待っていました。

歩き疲れたねなんて言って、ちょうど空いていたベンチに腰掛けて一緒に買ったカキ氷を食べてる時。

「あのね」

彼女が切り出します。

「あのね…」

言いにくそうに言葉を詰まらせて。

もしかして…告白?彼はドキドキしながら彼女の言葉を待った。

しばしの沈黙。夏の空気が2人を汗ばませる。

意を決して彼女が口を開いた。

「あのね…好きなんだ」

僕も…と言おうとした時だった

「リク君の事が」

咄嗟に言葉を飲み込んだ。

「君はリク君と仲がいいから、相談に乗ってほしいなって思って…」

彼女の横顔は今までに見たことがない程に真っ赤になっていた。

浴衣に合わせて上げた髪のうなじからポタリと汗が落ちた。

「いいよ」

僕は彼女の頼みを承諾した。

「ほんとに?」

「勿論」

僕の笑顔は引きつっていなかっただろうか。

…いや、引きつっていたとしてもかまわないか。

僕の顔なんて彼女の眼には映っていないんだから。

 

こうして、彼女に思いを伝える前に彼の恋は終わりを迎えます。

告白出来ずに終わった恋を消化しきれずに、彼女を好きな気持ちは失くすことが出来なかった。

ここから彼の切ない片思いが始まります。

彼女とリクが付き合うまでにはそんなに時間はかかりませんでした。

彼女を好きなまま、リクと彼女の間に入って、2人を結んで、3人の関係は続いていきました。

彼は部活以外の時間はあまり彼女と接しないようになります。

 

「最近なんか距離あるね」

「そう?」

彼の気持ちを知らない彼女はそれをリクと付き合ってるから遠慮してると勘違いします。

「私たちのことはきにしないでいいから、前みたいに友達として普通に接して欲しいな」

それは彼女なりのやさしさだったのかもしれません。だけどそれが彼には余計に辛かった。

彼は失恋はしたけど、決して彼女を嫌いになったわけではないし、リクを嫌いになったわけでもない。透明人間だった自分を見つけてくれた彼女への感謝の気持ちは変わらずにあったし、クラスメイトの輪に入れるきっかけになったリクとの友情も大切に思っていました。

だから、彼は次第に一歩引いた状態で二人を眺めるようになります。「道のこっち」から。

それが彼が二人と一緒にいるために取った精一杯の防衛策でした。

 

高一の時に『失いたくないから』の中で君を好きな気持ちに気が付いて、高二の時に『君の名は希望』の中でその思いは強くなって、君に告白をしようと決意した。

 

 

 

 

すみません、出だしに後半と書きましたが、思いのほか長くなったのでやっぱ前中後編と分けて残りは本物の後編にさせてくださいw(本物の後編ってなんや)