diary

“Quem deseja ver o arco-íris, precisa aprender a gostar da chuva.” @pyi46

『やさしさとは』の歌詞と乃木坂の楽曲から創作する君と僕の物語(前編)

 

こんばんは。

 

今日は飛鳥ちゃんのお誕生日ですね。

飛鳥ちゃん、お誕生日おめでとうございます。

このブログは飛鳥ちゃんの誕生日とは全然全く何一つ関係のない内容になってるんですが、 飛鳥ちゃんの誕生日をお祝いしたくて勢いで書いてしまいました。

 

さて。

 

皆さんは『やさしさとは』という楽曲をご存知でしょうか。

この曲は乃木坂の7枚目のシングル『バレッタ』の収録曲で、歌唱メンバーは

生田絵梨花 中元日芽香 西野七瀬

能條愛未 橋本奈々未 松村沙友里 若月佑美

当時の乃木坂の中でも「歌声に特徴のあるメンバー」を選抜したそうです。

 

とまぁこのブログを読む人なら誰でも知ってる情報は置いておいて、僕はこの曲が大好きなんですよね。

メロディーの良さ、特徴的な歌詞、選抜メンバーに推しが多いなど好きな理由は色々あるんですが、その中でも特にこの曲を好きな理由はなんなんだろうかと考えた時に、僕はこの曲の「余白が多い所」が惹かれる理由なんだろうなと思うようになりました。

 

余白ってのは文章で言うところの行間が多いって事なんですけど、例えば曲の中で得に印象的なサビの部分でも

「やさしさとはなんなんだろう?」

と疑問を持つことで聴き手側にも同じ疑問を持たせておいて、最終的に出した結論が「答えが見つからなくてただ歩くしかなかった」と、その答えを教えてはくれない。結果的に聴き手側は各々でやさしさとはなんなんだろうかと考えるようになる。

『やさしさとは』って楽曲はこの「聴き手側が考える部分」が凄く多い曲だなって思うんです。

 

そしてこの曲はタイトルにもなってる「やさしさとは」なんなのかの答えを考える部分が1番大切だと思われがちなんですけど、実はそうではなくて、「ただ歩くしかなかった」部分がこの曲の本質なんだと、余白を埋めていく内にそう考えるようになりました。

 

何故その部分を本質だと思ってるのかについて語る前に、まずは僕がこの曲の歌詞をどう捉えてるのかについてざっくりと書きたいと思います。

 

 

君が腕に抱えてた 紙袋が破れて ラ・フランスが転がった

ふいのサヨナラなんて 心の端っこから落ちた 予測できないハプニング

一部始終を眺めてた 道のこっちで 冷静すぎたことがだめだったんだ

もっと感情的に僕が走れたら そう バスの時間に間に合った

やさしさとは何なんだろう? 君に駆け寄る速さか

それとも落ちた涙を 一緒に拾うことか

愛の意味とその価値を 僕は考えたけど

答えが見つからなくて ただ歩くしかなかった

 

 

これが1番の歌詞です。

君が抱えていた紙袋が破れてラ・フランスが落ちて転がってしまってるのを、道のこっち側から冷静に見てる僕。

彼女を眺めてやさしさとはなんなのかを考えて、答えが出なくて歩くしかなかった。

 

直訳すると訳が分からないですよね。いやいや冷静に眺めてる暇があるなら拾ってやれよと。それがやさしさだろと。そう思ってしまいます。

 

 

「やさしさとは」で検索すると割と上の方にこの曲の歌詞について考察してるブログが出てくるのでそのブログを読んだ方もいるかと思いますが、僕もあのブログの中の人と同様にこの曲の大部分は比喩なんだと思ってます。ただ解釈が少し違います。僕の解釈を書いてみたいと思います。

 

「君が腕に抱えてた紙袋」

紙袋は脆い袋です。大切に扱わないと破れてしまう。その紙袋を腕に抱えてた。

これは彼女の恋心を表してるんだと思います。

「破れてラ・フランスが転がった」

ラ・フランス洋梨(用無し)です。大切にしていた恋が終わって、自分自身が用無しの存在になった。

これは恋人に振られてしまった様子を表してるんだと思います。しかも、紙袋を抱えてた状態だった事から彼女は振られる時にはまだ彼のことを好きだったことも伝わってきます。

 「一部始終を眺めてた道のこっちで」

 二番の歌詞の中に「急に相談されたって相づち打って話を聞くくらいで逃げてただろう」とあります。この歌詞から二人は親しい友人関係、少なくとも恋愛の相談話をするくらいの仲であったことが推測できます。

このことから、一部始終と言うのは「彼女の恋が終わった瞬間」ではなくて、「彼女の恋の始まりから終わりまで」を表してるんじゃないかなと思います。彼は道を挟んでいることから距離を取った状態、一歩引いた状態で彼女の恋愛をずっと眺めていた。

そして彼はそのことを「冷静すぎたことがだめだったんだ」と悔やんでます。 

「もっと感情的に僕が走れたらそうバスの時間に間に合った」 と。

バスは目的地まで運んでくれるものです。この部分も余白が多くて色んな解釈が出来ると思いますが、僕はこのバスに乗ろうとしていたのは彼女の方だと思います。

彼女の目的、バスに乗ることはこの恋愛が上手くいくことだったと思います。つまり、彼が一歩引いた状態ではなく、もっと感情的に行動することが出来ていたら、彼女の恋は上手くいくことが出来たと、そう彼は悔やんでいるのです。

 

そしてサビに入ります。

「やさしさとはなんなんだろう?」

僕は「君に駆け寄る速さ」も「落ちた涙を一緒に拾うこと」もやさしさだと思います。だけど彼はそれがやさしさだとは思えなくなっていた。だから答えが見つからなくてただ歩くしかなかった。

ではなぜ彼はそれをやさしさだと思えなくなっていたのでしょうか。

 

もう少し考察していきます。

 

だけど君は淡々と アスファルトにしゃがんで ラ・フランスを集めてた

取り返しのつかない 失敗してしまったように まわりのみんなは憐れんだ

急に相談されたって 相づち打って 話を聞くくらいで逃げてただろう

愛を客観的に語ることなんて そう今の僕には できやしない

やさしさとは何なんだろう? 君を慰めることか

あるいは涙のわけを 何も聞かないことか

今さらどうすればいいか 誰か教えてくれよ

正しい答えじゃなくて 今信じられることを

 

「だけど君は淡々とアスファルトにしゃがんでラ・フランスを集めてた」

振られた辛さや悲しさを周囲には見せずに気丈にふるまう彼女。

「取り返しのつかない失敗してしまったように」

理由は後述しますが、僕はこの物語は高3の冬に起きた出来事だと思っています。

「まわりのみんな」は同級生です。同級生は彼女の恋愛を知っていた。そして、彼女が振られたことも知った。「憐れんだ」は、いつものように明るくふるまう彼女の姿を見た同級生たちの同情心だと思います。

「愛を客観的に語ることなんてそう今の僕にはできやしない」

彼は今の自分には愛を客観的に語る余裕がないと言っています。何故なのか。これは一番の「もっと感情的に僕が走れたら」に繋がってくるんだと思います。

彼は感情的に走ることが出来なかったことを「冷静すぎたことがだめだったんだ」と後悔している。それは彼女への負い目です。彼は自分がもっと感情的に動くことが出来たら彼女はきっと「バスの時間に間に合った」と考えている。彼は彼女の恋を終わらせた原因は自分にもあると考えている。だから彼女の相談を聞けなかった。彼女への罪悪感が、彼を彼女から逃げさせていた。

 

「やさしさとは何なんだろう?」

「君を慰めること」も「涙のわけを何も聞かないこと」もやさしさです。

だけど彼にはそれが出来なかった。彼女の恋愛が終わってしまった今、いまさらそんなことは出来ない。だから彼は、「正しい答えじゃなくて今信じられることを」誰かに教えてほしいと訴えます。

 

 

声を掛けないまま 君を見送るだけ

その方が僕らは しあわせなんだ

小さな後悔で 時が過ぎて行くのならば

思い出すのはやめにして 孤独を選ぼう

 

きっと彼はやさしさが何なのかは分かってます。

それは今すぐに君に駆け寄って、涙を拾って、慰めて、涙の理由を追求せずに、ただ君のそばに寄り添うことだと。

だけどそれは出来ない。何故なら彼は「道のこっちで冷静すぎた」から。

もうやさしさの本当の答えは出てるんです。それは「もっと感情的に」動くことだった。それが出来なかった時点で、彼はいまさらどんなにやさしさの答えを導き出した所で彼女に声をかけることが出来なくなっていた。

声を掛けない方がぼくらはしあわせだと。小さな後悔は思い出さないようにして孤独を選ぼうと自分に言い聞かせた。

 

そして、彼は「やさしさとは何なんだろう?」の答えが何なのかは分かっていたのに、やさしさを出せずに「ただ歩くしかなかった」

 

 

これが僕の『やさしさとは』の解釈です。

 

何故彼は「道のこっちで冷静すぎた」んでしょうか。その理由はきっと「彼も彼女のことが好きだったから」

彼はずっと彼女が好きで、だけどその気持ちは伝えられずに、彼女の恋の相談にも乗っていた。だから自分の気持ちを抑えて一歩引いて道のこっちにいた。

そして彼女が振られた今、彼女を好きな気持ちを抑えながら彼女を慰めることなんか「今の僕にはできやしない」と考えた。

だから彼は「ただ歩くしかなかった」のかなと思います。

 

好きな気持ちを伝えられないままに、自分自身の恋も終わって孤独を選んで歩くしかなかった。

凄く切ないなって思います。

 

ただこの解釈をすると、この曲にはまだ余白があります。

何故彼は「冷静すぎたことがだめだったんだ」と考えるようになったのか。何故彼は「もっと感情的に僕が走れたら」彼女は「バスの時間に間に合った」と考えたのか。

なんでだろうなって考えて、僕なりにもっと余白を埋めてみました。

そして余白を埋めた結果、『やさしさとは』は「僕が君と出会って恋に落ちて思いを伝えられないままその恋が終わる高校三年間の物語」になってしまいました。

 

長くなったので前半部分はここまでにします。

後半はそんな僕と君の物語を書いてみたいと思います。もし興味を持ってくれたら後半も読んで下さると嬉しいです。

ありがとうございました。

 

変わらない強さ

 

お久しぶりです。

46時間TVが終わって早一週間。時の流れの速さを感じて震えてます。

今日は46時間TVの感想でも書いてみたいなと思ったので久しぶりにブログを開きました。

オタクなのでアーカイブも駆使して深夜の再放送以外は全て見ました。

 

いやー、楽しかったですね(感想終わり)

 

突き詰めればこの一行で終わってしまうのですが、せっかくブログを開いたのでもう少し書きたいと思います。

全てを振り返るのは長すぎて無理なので、特に心に残ってる齋藤飛鳥生田絵梨花大園桃子の電視台について書きたいなと思います。

 

まずは大園桃子の電視台。

彼女は奥華子さんの「変わらないもの」を歌いました。

透き通る声で、真摯に歌う姿に感動しました。

沢山の曲の中から変わらないものを選んだのは、映像では語られなかった彼女なりの深い理由があると思います。それを予測するのは無粋なのでしませんが、僕なりの捉え方を書きたいなと思います。また、彼女の電視台が全てのメンバーの中で一番最後に選ばれたのにもきっと理由があったんだと思います。

 

かなり前の話になるんですが、彼女がまだ乃木坂に加入して間もないころ、乃木坂工事中で遊園地に行くロケがありました。その中でお化け屋敷に挑戦した時の話になるんですが、彼女は入り口の部屋にいるゾンビが怖くて全く部屋に入れずにいました。だけど数十分経つとそのゾンビに話しかけるようになって、最後は怖くて進めないから一緒に行こう?と話しかけてました。

結局怖いからやっぱ無理と言ってリタイヤしてしまったんですが、僕はあの時の彼女に彼女の魅力が詰まってるなと思いました。

 

自分が今まで否定していたものを肯定に変えるのは凄く難しいことだと思います。

何故ならそれは(過去の)自分自身を否定することに繋がるから。

自己診断テストをやると、自分にとってどの分野が苦手かを診断されます。だけどなかなかそれを改善出来ないのは、まずはその分野が苦手なことを自分が認める必要があるから。心の中で「本当は出来る」「別に苦手じゃない」と考えてしまっていると、改善にはつながりません。

 

彼女はあの数十分間の間に、怖がってたゾンビに話しかけ、行動を共にしようと提案します。普通の人はそのゾンビからどう逃げるかを考えます。

彼女は環境を受け入れ、アジャストしようとする能力が強い子なんだろうなと思いました。怖いものから逃げるのではなく、自分の中に取り入れようとする、それが彼女の魅力だなと思いました。だからきっと何も分からなかった世界に飛び込んで、そこがどんなに怖い場所だったとしても頑張れてるのかなと、彼女が涙を流したり努力をしてるのを見るとあの時の映像を思い出します。

 

それはある意味では「変わらない強さ」とも言えると思います。

ゾンビから逃げるのではなく仲間にしようとするのは、自分が変わるのではなく、周りを変えていこうとしてる。これは別に彼女が傲慢に周囲を変えていこうとしていると言ってるのではなくて、彼女自身にぶれない芯があって、流されず、染まらない強い力を持ってる。

 

だから変わらないものを歌うと聞いた時に、変わらないものは彼女そのものだなと思いました。

 

反面、変化は凄く大切なことだとも思います。

人は変化を恐れます。未来は見えないから。変われば変わるほど予測が難しいから。

それなら見える道を歩める現状維持が一番「楽」だから。

 

齋藤飛鳥の電視台、彼女は変化を求めてました。

様々なキャラ(本人はキャラのつもりはないでしょうけど)を経てきて、多分今は一番楽な状態でいるんだと思います。

そんな彼女がどうして明るくなろうと思い立ったのかは分かりません。

 

ただ、僕は彼女も大園桃子と同じでぶれない太い芯を持ってると思います。

太い芯があるからこそ、変わっても大丈夫だと考えてるだろうし、変化の大切さを感じてるのかなと思いました。

最近の飛鳥ちゃんのモバメが「とにかく可愛い齋藤飛鳥」なのは「とにかく明るい齋藤飛鳥」の影響もあるのかなと思うと可愛いなと思います。(ツイートみたいな感想)

 

そして生田絵梨花の電視台、彼女はバイオリンとギターに挑戦していました。

短い期間の間で、正直人前で演奏するにはまだ拙い。だけどその演奏からは努力と練習が伝わりました。

 

個人的になんですが、僕は「完成を見せる」のがプロで、「途上を見せる」のがアイドルだと思ってます。下手でも、出来てなくても、頑張ってる姿をファンは応援する。

だけどいくちゃんはミュージカルで活躍するプロでもあります。プロでもあるし、アイドルでもある。外に出たらプロだし、乃木坂にいる時はアイドル。本当に凄い子だなと思いました。

 

幼い頃から練習した成果を人前で披露してきて、その大切さを誰よりも知っているであろう彼女が、まだ完成してない状態のものを披露してくれる。それだけファン、メンバー含めて乃木坂に自分の身を委ねている。

それも凄く素敵だなと思いました。

 

 

いくちゃんと飛鳥ちゃんの電視台に共通して言えるのは「新しいことへの挑戦」

そして大取でぞのっちが歌った「変わらないもの」

 

ーーーーー

 

コロナの影響で世界が大きく変わりました。

今まで通りに戻れるかは分からない。

それは彼女達が生きてる世界にとっても大きな意味を持つことだと思います。

握手会、イベント、ライブ。今後どうなるのか分からない未来。

 

そんな中で彼女達は自分に与えられた時間を使って、新しいことに挑戦していく大切さを教えてくれた。

そして最後に、どれだけ変化していっても変わらないものの大切さを教えてくれた。

 

変わらない強さがあるから、変化する勇気が持てる。

 

そう思った46時間TVでした。

 

 

最後に、飛鳥ちゃんがナレーションをした僕の好きな言葉を置いておきます。

 

変わることも変わらないことも

全て受け入れて私たちは進む

変化することは避けられないこと

だから少しだけ信じてみたいのです

今日より明るい未来

好きな人達のこと

 

 

読んで下さってありがとうございました。

「テレビとyoutube」

 

民放キー局もネット同時配信へ 秋以降、テレビ離れに対応

https://www.sankei.com/entertainments/news/200201/ent2002010003-n1.html

 

 

若者のテレビ離れから時代はyoutubeへと流れてる。将来なりたい職業の上位にはyoutuberがランクインし、今やyoutuberは芸能人よりも子供たちの憧れの存在になっている。

芸能界からもyoutubeに参入する芸能人が増えてきている。

 

テレビの時代からネットの時代へと。その両方を味わってるおじさんの意見だけど、僕はyoutubeがテレビよりも面白いとは思わない。勿論魅力的で面白い動画も沢山あるけど、総合的な意味合いではテレビの方が面白い映像が多いと思う。若者に人気を得ているのは、「コンテンツの利便さ」が一番の理由だと思う。現にyoutubeに違法アップロードされているテレビ番組は下手なyoutuberの動画よりも再生回数が多い。

テレビ離れが進んでいる原因はテレビの不便さとコンテンツ的なサービス要因の少なさだと思う。

いつでもどこでも簡単に好きな動画が見れる。自分が好きなカテゴリの動画が検索から簡単に探せる。少し見て違ったらすぐに次の動画に移れる。見てる動画も簡単に求めてる場所まで飛ばせる。おすすめカテゴリには類似動画が陳列される。

テレビにはない便利で受け手側が満足出来るサービスが揃っている。それがyoutubeの強さだと思う。

 

そしてテレビ離れのもう一つの大きな原因は「信頼性の欠如」だと思う。

作られたシナリオ、作られた笑い。よりリアリティーを求める若者はそれを嫌う。

youtuberの大きな魅力の一つが「信頼性」だと思う。多少強引でも多少シナリオが乱暴でも常にガチンコで、そこに嘘がない。だから見たくなるし、裏切られない安心感が視聴者を惹きつける。

 

ただ少しずつ時代が変わって来てるなとも感じる。芸人のyoutubeへの参戦。youtuberと芸人を並べたら、芸人の方が面白いのは当たり前だ。youtuberの作られた嘘ではないという信頼性と、芸人の面白さが組み合わさったら、そう簡単になりたい職業と言ってられる時代ではなくなると思う。

 

話がそれたけど僕が思うのは、多様性が求められてる時代だとしても、結局一番強いのは「本物」だということ。

もしテレビが番組欄をマウスで簡単にクリック出来て見たい番組をすぐに見れるコンテンツになったとしたら。その番組表が過去さかのぼって昔の好きな番組でもクリック一つでいつでも見れるコンテンツになったとしたら。例えば見たかったけど見逃してしまったドラマを番組表から遡って第一話を見れるようになったとしたら。その右側におすすめ動画として第二話第三話が見れるようになったとしたら。例えば三年前のMステで乃木坂が披露した君の名は希望をすぐに見れたり、その右側におすすめ動画として他の歌番組の動画や紅白の動画が出てくる機能がついたとしたら。それが5年前10年前の番組も見れるとしたら。

もしそうなったらテレビというコンテンツはあっという間にyoutubeを超すと思う。

過去番組は全て保存してあるだろうし、不可能ではないと思う。利権や版権の問題で不可能だとも思うけど(矛盾)

だけどテレビ+youtubeみたいなコンテンツが生まれたら、それは最強で最高だなと思う。

 

そんなことを最近思ったけどツイートにするには長すぎるからブログに書いてみたw

 

すげーどーでもいい内容だけど酔った勢いなので多めに見て下さいw

『脱退』

 

平手友梨奈が脱退を発表した。卒業と脱退の違いに色々な憶測が飛び交ったが、直後に出た記事には「本人の強い希望」と書かれていた。

 

 ーー

保険のような前置きになりますが、僕は欅坂46の事をよく知りません。音楽番組とMVで表題曲を聞くのと時々けやかけを見るくらいで、インタビュー記事を読んだりラジオを聞いたりライブを見たこともないです。だから本当に欅坂を上っ面しか知らないにわか中のにわかが個人の感想を書くだけですので、それだけはご了承して頂けたら幸いです。

 ーー

 

アイドル、ましてや結成したてのこれから売り出していくアイドルのデビュー曲として、サイレントマジョリティーは異色を放っていた。明るくキラキラと可愛さを主張した曲とは真逆で、少女達が生きていく葛藤を訴えかける。その中でもセンターの彼女の存在感は圧倒的だった。決して笑わず「大人たちに支配されるな」とカメラを睨みつけていた。

 

もし彼女に欅坂46の平手友梨奈になった瞬間があったのだとしたらそれはいつなんだろうと、彼女のパフォーマンスを見てるとしばしばそう思うことがあった。

そしてそれは本当の平手友梨奈なのかなとも考えた。

乃木坂に憧れて、生駒里奈に憧れて、彼女みたいなアイドルになりたいとオーディションを受け、合格して、なにがなにやらわからないままセンターになり、初めて歌う曲の中で「One of themに成り下がるな」と、マイノリティを求められた。

 

素人目での感想になるが、彼女は演技派というよりも憑依型だなと思う。役を演じるのではなく、役になりきる。だからこそ、見ていて惹かれるし胸を打つ。

15歳の少女がセンターに立ち「大人たちに支配されるな」と、自分らしく生きろと説く。その役に憑依する。

そして不協和音では自分の意志を貫けと、そのためには嫌われても構わないと叫び、ガラスを割れでは自分の自由のためには目の前にある障害は自分の拳でこじあけていけと叫ぶ。

10代の少女が憑依し役になりきって自由を訴えかけることは、同年代の若者の心には響くのかもしれない。

 

だけどこれは大きな矛盾だなと僕は思う。何故なら10代の少女にはまだ「自分」が確立してないのだから。まだ自分が出来てない中で「自分らしく生きろ」と叫び、そのためには嫌われたって構わない、目の前の障害はぶち破れと叫ぶ。

結果、それが「自分らしさ」になってしまったのじゃないのかなと。

彼女は憑依型だと思う。だから、彼女が矢面に立って自由を若者に訴えかけることで、彼女自身がその象徴になっていってしまったのじゃないのかなと、彼女のパフォーマンスを見ているとそう思う。

そう思うほどに、欅坂46の平手友梨奈は本当の彼女ではないんじゃないのかなと思ってしまう。

 

自己形成に周囲の環境は必要不可欠なものだと思う。

自分を主張することも見失わないことも勿論大事だし、自分らしく生きることも勿論大事なことだ。だけどそれは大人に反抗することとは違うし、仲間を作らないこととも違う。大人の言うことを自分の中で咀嚼して大事だと思うことは取り入れる。仲間を大切にする中で自分らしさを見失わないようにする。10代の少女は本来はそうであるべきだと思う。

だけどそんな歌はつまらないし心には響かない。

インパクトを重視し、若者の心に響く曲を作り、それを若者の代弁者として歌っていった結果、本当に大切なことを失くしたまま彼女の「自分らしさ」が完成してしまったのではないのかなと、彼女のパフォーマンスを見てるとそんな印象を受ける。

 

乃木坂と欅坂は楽曲が正反対だなと思う。

夢や希望を歌う乃木坂に対して現実をつきつけてくる欅坂。

仲間を想い涙を零すほどに影響される乃木坂に対して仲間の中にいても自分の意志を貫かせる欅坂。

 

もし彼女が欅坂46の平手友梨奈じゃなかったら、今とは違う彼女になっていたのかなと、そんな風にも考える。そう考えると、アイドルを利用する大人も、そしてそれを楽しむファンも残酷だなと思う。

 

サイレントマジョリティーで自分らしく生きていくことを主張し、不協和音でそのためなら嫌われても構わないと主張し、ガラスを割れで自由を邪魔するものはぶち壊していけと主張してきたことで、自分自身が黒い羊となり、結果的に本当の自分らしさを見失うことに繋がってしまったのだとしたら、それは彼女自身が一番大人に支配されてしまっていたということであり、皮肉な結末だなと思う。

 

 

 

『脱退』について、最上もがさんが持論をツイートしていた。

「卒業と脱退の違いの話で、ぼくは“脱退”、ねむは“卒業”したけれど、続けたくても身体的にも精神的にも限界だったために、抜けざるを得ないという選択を自らしたので、どうしても卒業という表現ができなかった。ねむはちゃんと今後のことを見据えて決めていた、の違いかなって」

 

彼女が欅坂を辞める決意をした理由はいずれどこかで彼女自身が話すだろう。ただ、何故彼女は脱退に拘ったのかが気になった。

僕は彼女は誠実な人だと思う。何を持って誠実と言うかの捉え方はそれぞれなので、そうではないと言う人もいるかもしれない。だけど彼女のパフォーマンスからは努力と練習量が伝わってくるし、歌詞を深く自分に落とし込んでいるであろう背景も伝わってくる。そうじゃなければ多くの人を惹きつけるパフォーマンスは出来ない。だから僕は彼女は自分の信念に対してはとても誠実な人だと思う。

そんな彼女が卒業ではなく『脱退』を強く希望した。そこにはしっかりとした理由があるんだろうなと思った。

 

卒業に比べ脱退はネガティブな印象を受ける。

この形で辞めることに納得してないのか、或いは辞めることに対して強い意志を持っているのか。どちらにせよ、欅坂か、或いは欅坂にいた自分自身と強く決別したい、そんな心情を感じてしまう。

 

常にセンターを務め、欅坂を平手坂と揶揄され、期待、妬み、好奇の目を全て受け止める重圧から解放されたくなったのか、自分の存在が欅坂のメンバーにマイナスになってると感じたのか、或いは欅坂46平手友梨奈でいることに疲れたのか。理由は分からないけど、「良い決別」ではないんじゃないのかと勘ぐってしまう。

 

欅坂の平手友梨奈として彼女にしか出来ないパフォーマンスで多くの人を魅了し、感動や勇気や力を与えてきた筈の彼女が、納得の出来ない決別を選んでいたのだとしたら、それはとても悲しいことだなと思う。

 

今後のソロ活動で、彼女がどんな道を歩もうとしてるのかは分からない。今までの平手友梨奈を更に進化させていくのかのしれない。それは勿論素晴らしいことだと思う。

だけどもし欅坂46平手友梨奈を本当の自分ではないと感じているなら、本当の自分らしさを見つけていって欲しいなと思う。

 

 

君は君らしく生きていく自由があるんだから。

 

 

 

鳥、貴族を見て。

 

僕たちが生まれるはるかはるか昔。

まだノアの箱舟もキリストも存在しないはるか昔。

世界には僕たちの祖先以外にも数種類の人類が存在していたそうです。

僕たちと同じくらいの体格で、僕たちと同じように二足歩行で歩き、僕たちと同じように道具を使い狩猟をし生活をしていたそうです。

だけど長い歴史の中で僕たち人類の祖先は他の人類を駆逐していき、生き残った自分たちのことをホモ・サピエンス(賢きもの)と呼ぶようになりました。

何故同じような体格、歩行、狩猟が出来たのに、ホモサピエンスだけが生き残れたのか。ホモ・サピエンス(ヒト)は他の人類と大きな違いがあったそうです。

それは「想像を共有する」こと。ヒトだけが、物語を作り、その作られた物語を共有することが出来たそうです。

それは例えば「もし敵がきたらどうするのか」の状況を想像し共有したり、例えば神や精霊など見たことがないものを作り出して共有することが出来る。

その力によってヒトだけがコミュニティーを拡大することが出来て、小さなコミュニティーで活動することしか出来なかった他の人類を絶滅に追いやっていった。

そして唯一生き残った我々人類を自ら「賢きもの」と名前付けた。

ーーーーー

 

思うんですよね。どうして僕たちホモサピエンスの祖先は、他の種類の人類と共存する未来を描けなかったのかなって。

僕たち人類は自らを「賢きもの」と名付けるくらいの傲慢な生物です。

自分たちと異なる種族は受け入れられない。地球上にいた全ての人類を駆逐しホモサピエンスだけが生き残った後も、黒人、ユダヤ人、人種差別、迫害。これは決して過去の話ではありません。見た目の違いを笑い、差別、攻撃する。その血は科学が発達した今でも脈々と流れ続けてると思います。

もしホモサピエンスが異種を受け入れられる種族だったら、今はきっと全く違う世界になってたかもしれないなと思います。

そこにはもしかしたら眉間から角が生えた鶏人や、手から棘が生えた棘人のような人種も存在したかもしれない。

だけどホモサピエンスの傲慢さから、その世界にも確執、迫害、争いもあったかもしれません。世界は必ずしも優れてるものが生き残るとは限らない。もし他の種族の方が美しい絵を描くことが出来て、芸術的な作品を生み出すことが出来る能力が優れていたとしても、争いに強きものが勝ち残る。そして、勝ち残ったものが正義となる。

 

その法則が世界を作ってきた。

ーーーーー

 

冒頭の言葉

 

今 異を唱える者は

治世の犯罪者に他ならない

 

今 沈黙してる者は

不正の共犯者に他ならない

 

反論する者は治安を乱す犯罪者で、

黙ってる者は犯罪を傍観してる共犯者だと言ってます。

つまり、「はい」と言う人間以外は全員犯罪者だと。

そして最後に「そんな世界の物語」でしめる。そんな世界と言いながら、実はこの世界のことを言ってる。とても皮肉が効いてるメッセージだなぁと感じました。

 

ーーーーー

 

ミトラ(齋藤飛鳥)は、鵜人迫害社会の中でムギと出会います。鵜人は疎外されて当たり前の世界で育ってきた価値観から最初はムギを遠ざけ、ひどい言葉を浴びせます。

だけどムギの才能を知り、認め、受け入れることで、正しさを考えます。私たち人間の鵜人への扱いは間違いなんじゃないのか。本当に疎外されるべきなのは、人間なんじゃないのかと。

 

実際に言ってるわけではないですが、僕は飛鳥ちゃんの演技からそう感じました。

 

ーーーーー

 

冒頭、ホモサピエンスが生き残った理由を「想像を共有することが出来た」からと書きました。僕たち人間だけが唯一、物語を作り、その物語を共有する力があった。

それは言い方を変えれば僕たち人間だけが「嘘をつくことが出来た」ということ。

嘘をつけたから、他の「嘘をつけない種族」を全て滅ぼし、ここまで生き残り、地球上最強の種族となれた。

僕たちが今こうして生きていられる理由が「嘘をつくことが出来た」からってのは何か皮肉だなぁと思います。

 

 

ーーーーーー

 

もし世界がミトラのような子で溢れていたら、人間は鵜人と共存出来たのかなと思います。そして、共存した方がお互いにとって素晴らしい未来が待っていたのかなと。

だけど、それが出来ないから今の世界があるんだなとも思いました。

沢山の業の上に僕たちは立っている。それを考えさせてくれた、凄く深くて面白いドラマだと思いました。

 

何も考えずにババっと書いた乱暴な文章ですが、読んで下さってありがとうございました。

「いつのまにか、ここにいる」を見て。

 

最近、あなたの番ですを見るのにはまってます。

最初は確か半分なぁちゃん目的で評判も高かったから見始めたんですが、ドラマ自体が凄く面白くて、今ではすっかりドラマを楽しむために見ています。ドラマにのめり込んでいくとわかるんですけど、なぁちゃんをなぁちゃんとして見てないんですよね。ちゃんと西野七瀬が演じてる黒島沙和として見ています。そこにはもうアイドルの西野七瀬はいなくて、女優西野七瀬が成立しているんだなぁと感じて、そう思った時に凄く寂しさを感じました。

AKBからアイドルを見てるからなのかもしれませんが、僕の中のアイドル像は「一人じゃまだ芸能の道で生きてくのが難しい子たちが、密接に応援してくれるファンの力を借りて色々な経験を積んで芸能界で生きていくために力をつけてく」

いわば「芸能界の予備校」みたいなものってイメージを持っています。

 

だけど今の乃木坂46には、まいやん、いくちゃんを筆頭に卒業しても各々が目指す芸能の道で活躍出来る人が沢山いると思います。

それは言い方を変えれば、彼女達にはもう乃木坂は必要ないってこと。もし今すぐ卒業しても、ちゃんとその道で認められて活躍することが出来る。なぁちゃんが女優として成立してるのを見ると、他の乃木坂ちゃんもきっとそうなんだろうなぁと思ってしまって、それは彼女達の事を考えると素晴らしいことなんだろうけど、オタクの目線から見ると凄く寂しいことだなぁと、最近、そんな感情を抱いていました。

 

ーーーー

 

先日、「いつのまにか、ここにいる」を見てきました。

ここからは映画のネタバレを多大に含んでいくことになると思います。

まだ映画を見てなくてネタバレが嫌な方はお手数ですが戻るボタンを押してください。

 

映画に出てくるのは主に今までの乃木坂を作ってきた一期生と、未来を感じさせる三期生になっていました。

前回のドキュメンタリー「悲しみの忘れ方」が少女たちの成長を描いた作品だとしたら、今回の映画はすでに成長してる段階からの、少女たちのこれからを描いた作品になってるなと思いました。

 

冒頭で監督の言葉がテロップとして流れます。うろ覚えですが、『アイドルを全く知らない僕が、乃木坂のドキュメンタリーを撮ることになった』みたいなことを言っていました。その言葉通り、アイドルを知らない人が、乃木坂46というグループに出会い、密着していく中で感じたことをそのまま映像化したんだなぁと、そんな印象を受けました。何故なら、この監督は恐らく見る側のオタクがどんな生き物なのかをあまり認識してないなと。オタクがアイドルにどれだけの情熱を注いでるのかをあまり考えてないなと。それくらい出てくるメンバーが無配慮に偏っているなと感じました。

実際、監督はパンフレットの中で映画についてこう語ってます。

「この映画は、僕の「乃木坂体験記」です。あくまで僕が直接見たものを入れ込んだものなので、乃木坂46というグループのすべてを語ることはできません。でも、体感したものをできるだけ詰め込んだので、息吹のようなものを感じていただきたいです。そして、実際に人と出会った時のような感覚が残ったらいいなと思います。」

 

確かにメンバーに偏りはありました。だけど、密着してく中で乃木坂について感じたことを、乃木坂46はこんなグループなんだよってのを、しっかりと映像で伝えてくれてるなと思いました。

 

前半は主に西野七瀬の卒業について映画は進行します。

個人へのインタビューも、彼女の卒業をどう感じるか、自分自身の卒業についてはどう思うのか。そもそも、アイドルと卒業とは何なのか。そんな議題をつきつけてきます。

そんな中で同時に見せてくるのが、彼女達の仲の良さです。

監督は言います。「彼女たちは異常なほどに仲が良い」

 

インタビューに答えるメンバーも、卒業していくメンバーを見るのは寂しい。自分もいつかは卒業について考えないといけないとは思う。と語りながら、口々に言います。「乃木坂が好きだ」と。

自分が卒業することを考えるよりも、乃木坂が好きな気持ちが勝ってしまう。

だから卒業についてはまだ考えられないと。

乃木坂が好きで入ってきた3期生。山下美月も言います。

「永遠に誰も卒業して欲しくない。それくらい今の乃木坂は素敵なグループ」と。

 

なぁちゃんはインタビューで「乃木坂には見えない力が働いてる」と言います。個人個人の力はもちろん凄いけど、それ以外の力が乃木坂にはあると。

 

これは僕が映画を見ながら感じたことになるんですが、乃木坂46は「幸せの集合体」なんだなと思いました。

本来なら彼女達は仲間であるのと同時に、決められた枠を取り合うライバルです。

その関係が7年かけて何故ここまで、異常と言われるほどに仲が良くなったのか。

それは、彼女達は共に過ごしていくうちに、それが一番幸せなんだと気が付いた。

彼女達は言います。「乃木坂はみんな可愛くて、いい子で、仲が良い」と。

 

自論なんですが、僕は「自分を含む集合体への評価は、自分への評価へ繋がる」と思ってます。

例えば自分が働く会社や、自分が所属する部活への評価。

この会社はこんなに素晴らしくて、環境がよくて、この会社で仕事が出来て良かったと言っていれば、自然と自分もその会社にふさわしい人間になろうと行動し、自分の評価も上がる。逆も然りです。

例えば恋人や、別れた恋人への印象。

恋人を悪く言うのは、自分自身を悪く言ってるのと同じだと思ってます。それは別れた恋人も同様。

 

彼女達の「みんないい子」には、自分も含まれます。それは暗に自分もいい子だと言ってる腹黒い意味ではなく、みんながそう言うことで、そのグループにいる自分もそうありたいと、自然とそうなっていく。みんながみんなを褒めることが、自然と自分自身を高めていくことに繋がる。

誰がそのきっかけを作りだしたのかはわかりません。真夏やかずみんの優しさや、いくちゃんの純粋さ、まいやんの人当たりの良さ、色んな要素が素晴らしい化学反応を起こした。その中で、褒め合い、認め合い、仲良く過ごすことが一番幸せなんだってことに、メンバーみんなが徐々に気が付いていったんだと思います。

その結果、7年かけて乃木坂は「幸せの集合体」になった。

 

なぁちゃんが言っていた見えない力ってのは、この「幸せ」が導く力なんじゃないのかなって、そんな事を考えていました。

 

馬鹿みたいなことを言いますが、幸せってのは最強です。一番強いです。ありとあらゆる感情の最上級にあるのが幸せです。

だから彼女たちはどんなに辛いことがあっても、卒業の選択が迫られていても、乃木坂にいたいと考える。

真夏は言います。「いつも言いたくても言えなかったことがある。卒業するメンバーが出るたびに思う。卒業ってのを失くさない?って。」と。

かずみんは言います。「まだ受け入れられてない。自分の好きなグループにみんながいるって考えは凄い自分勝手だったんだな」と。

 

映画の中でメンバーに卒業に対して色んな事を聞いて、映画の構成上監督自身なんとか答えを作っていましたが、僕は結局何も答えは出てないなと思いました。

だけどそれが良かったなとも思いました。僕も誰にも卒業して欲しくないから。

 

逆に、意地でも卒業しない事で乃木坂を新しいアイドルグループにしてみせてほしいと、その気持ちが強まりました。

 

映画の中では生田絵梨花についても少しだけ深堀りしてくれてました。

京セラライブとレミゼ開幕がぶつかって、頭をパンクさせながらもどちらもこなそうとする姿。レミゼを終わらせて大阪に向かう新幹線の中で真夏の落書きに軽口を叩きながらも彼女は言います。「乃木坂の現場にいかなきゃって思う。乃木坂にいたい気持ちが年々強くなってる」と。

パンフの最後の方に菊池にもインタビューを取ってます。その中でいくちゃんについて触れてます。僕はパンフの中でその言葉が一番泣けました。そしていくちゃんの46問46答は真夏への愛が溢れています。是非読んでほしいです。

 

 

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映画の中でメインとして撮られていたのは、西野七瀬卒業と、齋藤飛鳥でした。

 

監督の意志か運営の意向かはわかりませんが、西野七瀬の卒業に「乃木坂の今まで」を、そして齋藤飛鳥に密着することで「乃木坂のこれから」を見せたかったのかなと感じました。

飛鳥ちゃんオタクとして飛鳥ちゃんが沢山ピックアップされるのは嬉しい反面、正直飛鳥ちゃんへの密着はこの映画のテーマから外れているような気がして、複雑な思いでした。なぁちゃんの卒業を取り上げるのは乃木坂全体にもつながる。だけど飛鳥ちゃんへの密着はただただ齋藤飛鳥という人間を追ってるだけだと感じたからです。

それは「いつのまにか、ここにいる」には繋がらないんじゃないかなと、そう思いながら見ていました。

でも飛鳥ちゃんは可愛かったです(それはそう)

 

飛鳥ちゃんのシーンで思ったことは沢山あるんですが、それは言葉にしようとしても書ききれないので一旦おいておきますw

 

一つだけ。シンクロニシティを披露したレコ大終わり。飛鳥ちゃんの隣にいる桃子が言いにくそうに言葉を詰まらせて、泣きながら「乃木坂も悪くないなって思った」と言って、それを聞いた飛鳥ちゃんは笑いながら桃子を抱きしめます。桃子ちゃんを慰めてるように見えたけど、桃子を一向に離さない。抱きしめて、慰めてるふりをしながら飛鳥ちゃんも泣いていました。

桃子の言葉は胸にくるものがあったんだと思います。それはその言葉に過去の自分を投影したのか、それとも今まで歩んできた道のりを肯定された気がしたのか。それは分からないけど、抱き合ってる二人は「心が勝手に共鳴」しているように見えて、凄く好きなシーンでした。

 

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最後に。

「いつのまにか、ここにいる」

最初にこのタイトルと、まいやんとなぁちゃんが抱き合ってるポスターを見た時、僕は「ここ」はメンバーの隣のことを言ってるんだと思ってました。

最初は怖くて抱き合うことも出来なかった二人が、一緒に過ごしていくなかで、いつのまにかここにいる存在になっていた。

勿論そうゆう意味も含まれてるんだと思います。

 

だけど映画を最後まで見て、違う意味もあるのかなって感じました。

「ここ」は乃木坂のことです。

メンバーから見た乃木坂でもあれば、ファンから見た乃木坂でもある。

明確にこうしたいって目標を決めて活動しているわけではない。どうなったら卒業するという設計もない。ただ、彼女たちが日々の幸せを積み重ねていった結果、いつのまにか乃木坂はここまで大きくなっていて、彼女達にとってもいつのまにか乃木坂はなくてはならない存在になっていた。

だから、乃木坂46は、彼女達にとっても、そしてそれを見る僕たちファンにとっても、「いつのまにか、ここにいる」存在なのかなと、そう思いました。

 

 

あまりネタバレはしないように感想を書こうと思ってたんですが、酔った勢いで書いてたら無茶苦茶ネタバレしてました。ごめんなさい!(謝れば大丈夫だと思ってる人)

 

ただ、ここに書いただけではない、もっと沢山素晴らしいシーンが詰め込まれた素敵な映画になってます。

まだ見てない人も是非見て下さいね(謎の番宣)

 

とても面白い映画でした。今度はもう少し深くもう一度見たいなと思いました。

ここまで読んで下さってありがとうございました。

分かり合えなくても、分かち合える。

 

今年の頭から開催されていただいたいぜんぶ展が5月31日で閉館を迎えましたね。

正直なことを言うと僕は可愛い乃木坂ちゃんの映像を見てるのが好きなオタクなので、衣装やジャケ写などにはあまり強い思い入れがなくて食指が動かなかったのですが、最後に一度は見ておきたいなと思ったのでお邪魔してみました。

会場は最終日ということも相まってなのか沢山の人で溢れていました。

行列のあとをついていくと、ツイッターで流れてくる画像でおなじみの入館券にどいやさんのスタンプを押してもらい、会場入りするとこれもまたツイッターで流れてくる画像でおなじみの飛鳥ちゃん達と写真を撮れるスペース。若い子たちが写真を撮ってるのを眺めながら暫く待つと、まず最初に2,30人ほどで区切られて入った部屋で映像を見る所からだいたいぜんぶ展がスタートしました。

映像ではMV撮影の裏側の様子が見れたり、関わったクリエイターやスタッフからの乃木坂ちゃんへの印象が速足で流れていきます。彼女達への魅力を語るクリエイターの人たちの言葉を見ると、乃木坂46が関りを持つ多くの人に愛されてきたからこそ、この展示が成立したんだなと感じます。

映像が終わるといよいよ展示スペースへ。9万点超の資料が展示されているだけあって、そのボリュームは圧巻でした。ジャケ写、絵コンテ、設定案、小道具、衣装。

世に出ているものだけではなく、出ることがなく終わったジャケ写案など、実際に足を運ばなければ見れないものもあり、また展示されずに箱の中に入っていて取っ手の隙間から覗かないと見れない資料にはちょっとした驚きも混ざっていて、だいたい全部展の名に負けない表も裏も合わせただいたい全部がここにはあるんだなと思いました。

MVの台本や絵コンテからは、作り手がどんな思いでその映像を撮ったのかが直接的に伝えられて、記憶の中の映像と照らし合わせて新たな発見があったり、もう一度そこに注目して映像を見返してみたいなと思いました。

シャキイズムの設定資料では名前と顔が認識されてなくて飛鳥ちゃんの写真に「チハル」、ちーちゃんの写真に「アスカ」と書かれていたり、初期の頃から徐々に凝って豪華になっていく資料や衣装を見ると、乃木坂が積み重ねてきた歴史を感じました。

また、大画面の映像や膨大な写真には乃木坂ちゃんの可愛さが沢山詰まっていて、壁に書かれたサインや、卒業したメンバーの写真も含め、視覚的に可愛い乃木坂ちゃんを沢山楽しむ事も出来ました。

物凄いボリュームでお腹いっぱいになるくらいの満足感は得ながらも、会場を出た後には全てを見きれていない、また見たいとも思わせる、素晴らしい展示会だなと思いました。

 

 

さて。ここからは個人的に感じた感想を書きたいと思います。

 

会場入りして一番最初に見る映像。オープニングの映像はこれから展示会を見る人へのメッセージが込められていると思います。そこに流れるのは乃木坂ちゃんの言葉ではなく、クリエイターの言葉。

全ての展示物にも、クリエイターの想いが詰まっています。

「だいたいぜんぶ展」

9万点超の膨大な資料。それは「乃木坂46の歴史」と言っても批判は出ない量だと思います。だけど「だいたい全部」と名前をつけた。だいたい全部ということは逆説的に言うとここに全ては揃っていないということ。

ではここに無いものは何か。それは乃木坂ちゃんです。ここには今までの歴史全てが揃っているのに、彼女達だけがここにはいない。

 

ここに展示されているのは、乃木坂46のだいたい全部なのではなく、乃木坂46を作り上げてきたクリエイターの全部なんだなと思いました。乃木坂の歴史の中の、乃木坂ちゃん以外の全部。だから、「だいたいぜんぶ」なのだと。

 

乃木坂46をレストランに例えるなら、乃木坂ちゃんは食材で、クリエイターは料理人、作品は料理です。食材は最高級のものです。そのままでも充分に美味しい。では食材が美味しければ料理をするのは簡単なのかと言われるとそれは違います。そのままで充分美味しいことを客は知っています。下手な味付けをしてしまえば、たちまち客からクレームが来る。いかに客に満足してもらえる料理を作れるのか。それがクリエイターの腕の見せ所です。

僕は展示物からクリエイターの声を感じました。「わいはこの食材をこんなにも美味しく仕上げたんやで。どや」と。

 

だけどそれは逆に言えば、乃木坂ちゃんがどれだけ愛されてるかにも繋がります。

僕は乃木坂46がここまで人気を得たのは可愛いからだけではないと思っています。彼女たちの人間としての魅力が人を惹きつけてきた。可愛いという要素だけではここまで沢山の人に愛されるグループにはなってないと。そしてそれはファンにも言えるし、スタッフにもクリエイターにも言える。

彼女達が魅力的だから、クリエイターは最高級の作品を作ろうとする。

その結果が「だいたいぜんぶ展」に詰まっているなと。

 

 

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だいたい全部展を見た後、何人かのオタクと一緒に飲むことになりました。

FFとして僕の事を知ってくれてはいるけど初めて会うオタクが多くて緊張しましたが、有難いことにみんな好青年で僕みたいな人間を受け入れてくれて非常に楽しく飲むことが出来ました。

初めてお会いするので、誰推しなのか、いつからオタクになったのか、そんな話も交えながら乃木坂ちゃんの可愛さについて語り合いました。

当たり前ですが、オタクになったきっかけも、推しも、好きな曲も、10人いれば10人のエピソードがあります。自分とは違う推しでも、好きになったきっかけも、聞くだけで楽しいなと思います。それは全ての話の向こう側に共通してあるのが「乃木坂が好き」って同じ感情だから。

 

 

だいたいぜんぶ展には沢山のファンが溢れていました。何十人、何百人のファン、その全ての人が同じ展示会を見ながら、その全ての人が違うものを見ている。出てくる感想も違う。

例えば、お皿の上に置かれたリンゴを見た時に、そのリンゴを見る人も、お皿を見る人も、リンゴの丸さに目が行くひとも、美味しそうだなと思う人も、自分の過去のリンゴに関わる思い出を思い出してる人もいるかもしれない。

同じものを見ていると思っていても、同じものを見ている人は1人もいない。

だけど時に人は相手も自分と同じリンゴを見ていると思ってしまい、だから人と人は時に縺れたり、いがみあったり、涙を流したりします。

「生きるってのは複雑だし、そう簡単に分かり合えるわけない」事を忘れてしまって。

 

飲みの席の中でぜんぶ展の感想を聞かれ、僕は前出に書いた感想を話しました。酔っていて上手く説明出来ないまま雑に話したのがいけなかったのかもしれませんが、他の感想を持っていた人からしてみたら僕の感想はポカンとなるような感想だったのかなと思います。実際その時は僕の感想に少しポカンとした空気になりましたw

このブログを読んでいて実際に見に行った人からしてみても僕の感想は訳の分からない感想だと思われる人もいるかもしれません。

 

だけど、自分以外の人の感想の中には、新たな発見があるかもしれない。

そこから新たな違う感情が生まれる事があるかもしれない。

 

飲みの席で一つ凄く嬉しいことがありました。

そこで初めて会ったオタクに、僕が以前ブログで書いたある言葉が今でも心に残っていると言って貰えて、こんな僕の言葉をそう思ってくれてるんだなと、それがとても嬉しかったです。

 

同じものを見てるつもりでも違うものを見てる。だけどその結果、感銘を受けたり心を動かされることもある。だから違うものを知るのは凄く大切なことなんだと思います。

 

僕の語彙力の問題もありますが、自分の想いが文章から100%相手に伝わってるとは思ってません。だけどそれは問題じゃない。読み手側がそこから何かを感じ取って、自分だけでは抱かなかった感情が芽生えることもある。

 

全ての人が同じ景色を見て同じ感情になっていたら、この世界に歌は生まれなかった(急に詩的)

 

 

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MVの台本や絵コンテには、映像で直接的には伝わらない細かい設定が沢山ありました。

シンクロニシティのMVや振りに込められた思いも。

僕の言葉と並べるのは畏れ多すぎるんですが、きっとクリエイターにもそんな思いがあるのかなと思いました。「作品に込めた自分の世界観が100%相手に伝わらなくてもいい。そこから新たな何かを感じてくれれば」と。

 

そしてだいたい全部展からもそれを感じます。9万点全てを見るのは不可能です。だけど、「全てを見てもらえなくても、そこから何かを感じてもらえたらいい」。

 

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全ての人が同じベクトルで作品を見ているわけではない、感じ方も様々です。

だけどその先に見えてる共通点は「乃木坂ちゃん可愛い」

手掛けるクリエイターも、支えるスタッフも、見るファンも、違う視線で見ていたとしても、その先にあるのは「乃木坂ちゃん可愛い」

 

乃木坂ちゃんが可愛いから、それだけの魅力があるから、クリエイターは伝わらないかもしれない設定にまで尽力して、スタッフは全てが見られなくても9万点もの資料を用意して、オタクは全てを見れなくてもだいたいぜんぶ展に足を運んで、飲み会では好きな推しについて語るんだなと。

 

分かり合うことが出来なくても、分かち合うことは出来る。

 

「そう簡単に分かり合えるわけない」のだとしても、「お互いに支え合って前向いて」行くのが大切だな。そう思った一日でした。

 

とても楽しい旅でした。会ってくださった方、また、ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。