diary

“Quem deseja ver o arco-íris, precisa aprender a gostar da chuva.” @pyi46

やさしさとは

 

 

少し前の話です。僕が買い物をしようとコンビニに入った時の事です。

1人の少女がレジで会計をしようとしてました。

あれは確か5月5日、時間は昼より少し早い、10時過ぎくらいだったでしょうか。

あの日は5月と言えども凄くいい天気で、薄手の長袖を着て外を歩くと少し汗ばむ程でした。

これから友達と待ち合わせてどこかに遊びに行くのか、自転車で来たであろう少女はヘルメットを被ったままでした。

僕が店内をくるっと周り、ペットボトルの飲料水を手にレジに向かっても、少女はまだ会計の途中でした。

よく見るとレジのお姉さんが少し困った顔をしていました。

少女は肩から斜めがけした小さなポシェットの中を一生懸命に漁っていました。レジカウンターの上にはアイスが置いてありました。

太陽の下自転車を漕いで身体が熱くなったのか、友達を待っている間にアイスを食べようとしたのでしょうか。

ただ、会計をしようとしたらお金が少し足りなかった。

もしかしたら少女には消費税の概念が無かったのかもしれません。それは定かではありません。

 

僕は少女の後ろ姿を見て少し悩みました。

不足金額は数十円。僕が彼女の代わりにそのお金を払ってあげる事は容易い。

ただ、見ず知らずの人に突然お金を渡されたら少女はどんな気持ちになるのだろうか。

その子がどんな性格で起こったことに対してどんな受け止め方をする子なのか、僕には全く分かりません。

そんな見ず知らずの他人に対して勝手な事をしていいものなのだろうか。

 

その時の僕は別に少女に感謝を求めたいとかといった感情は一切なく、ただ困ってる子を助けてあげたいなって気持ちしかありません。だけど、もしこれが感謝を押し付けてると捉えられたら、まだ純粋な少女の心に後ろめたさや罪悪感と言った余計な感情を作ってしまうのかもしれない。

考えすぎでしょうが、一瞬の間にそんな事が脳裏をよぎりました。

そして悩んでる間に、そのコンビニに少女の友達が入って来ました。

少女は友達からお金を借りて、笑顔で店を出ていきました。

 

少女の後ろ姿を見ながら、優しさってなんだろうなって思いました。

そこで不足金を出してあげる事が優しさだったのか、干渉しない事が優しさだったのか。

 

そして思いました。

優しさとは、自分が与えるものではなくて、相手が捉えるものなのかもなって。

やさしさとはなんなんだろうか。

例えば泣いてる人のそばに居ることがやさしさなのか、突き放すことがやさしさなのか。そのどちらがやさしさなのかに正解はなくて、相手がその行為をやさしさと認識した所にやさしさが生まれるのかもなって(分かりにくい)

 

「その行動が優しさだったのかどうかは自分が決めるのではなくて相手が決める」

文章にしてみるとごく当たり前の事なんですけどね。

 

自分で決められる事は何一つ無い。

 

面白いですよね。相手の事を思って起こした行動なのに、その判断は全て相手に委ねられる。

仮にそれを相手が余計な事だと判断してしまったら、純度100%の気持ちでも優しさにはならない。

 

どれだけ相手の事を思っていても、悩んだとしても、それが優しさかどうかの判断は全て相手に委ねて、どんな答えでも受け入れる事が出来る上で起こせる行動。それこそが本当の優しさなのかもしれないなって思ったんです。

 

上手く言えないんですけど。

 

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相変わらず前置きが長くなりました()

 

急になんでこんなくっさい事を書き始めたのかと言うと、「ほめて箱」って奴をやってみたんです。

そしたら、凄く沢山のお褒めの言葉を頂きまして。

その言葉達の中に、ほめるだけじゃなくて、励ましてくれたり、気遣ってくれたり、沢山の優しさが含まれていまして。

 

もしかしたらその言葉を書いてくれた人は、それを優しさだとは思ってないのかもしれない。

だけど、僕はそれをものすごく優しさだと感じまして。

 

「その行動が優しさだったのかどうかは自分が決めるのではなくて相手が決める」

 

これは相手が優しさだとは思ってなくても優しさだと感じる事が出来るって、そーゆー時もあるんだなって思ったんです。

 

ほめて箱の言葉は、僕には大きな優しさでした。

本当にありがとうございました。