diary

“Quem deseja ver o arco-íris, precisa aprender a gostar da chuva.” @pyi46

僕の思い込み

 

ああ、まただな。


齋藤飛鳥卒業コンサート

当たり前だけど殆どの曲のセンターを務めた飛鳥ちゃん、曲終わりにアップで抜かれる回数も多い。

その時に、とても優しく微笑んでいて、だけど寂しさがにじんでいるような。そんな表情を浮かべていることが見ていて何度かあった。

もっと具体的に言えば曲終わりのアップでは曲に合わせた表情を作っているのに、暗転直前に寂しさが溢れてしまうような、そんな風に感じ取れた。

 

その表情はライブが2日目、終盤に近付くにつれて多くなっていった。
最後のライブ、寂しさを感じてるのかなとも思った。だけどそれだけじゃないと思うようになった。

そう思ったきっかけは2日目のSing Out!だった。
初日のシングアウトのソロダンス。凄い気迫が伝わってきた。

乃木坂で培ったダンスの経験、今までの集大成として全てを出し切って踊っている、そんな風に見えた。

 

だけど2日目は違った。

最後の時を楽しんでいるような、名残を惜しんでいるような、余韻を味わっているような。

恋人同士の別れ際のような、故郷を離れる前に景色を眺めるような。


そんな、曲との最後を感じてるように見えた。
そのシングアウトの2日目のソロダンスを見た時に、飛鳥ちゃんのあの表情は、一曲一曲最後を噛みしめていたのかもなと思うようになった。

 

 

 

卒業発表をしてから、飛鳥ちゃんはよく「最後」と言うようになった。

 

これをするのも最後だから。
こうやって会うのも最後だから。

 

コンサートの中でも、何回か「最後」を口にしていた。

最後を実感させることで、突然の別れの寂しさはなくなる。
そんな飛鳥ちゃんなりの優しさの側面もあるのかなと思っていた。

だけどこれは自分自身にも言っていたのかもしれない。
自分自身にもちゃんと最後を実感させることで、寂しさが語り掛けて、心が折れそうにならないように。

 

そんな飛鳥ちゃんだから、言葉には出さなくても、この曲を踊るのはこれが最後、この曲を歌うのはこれが最後。きっと心の中ではそう思っていたんだと思う。

その心の声が曲終わり、暗転直前に漏れ出た時に、あの寂し気な表情になっていたのかな。そう思うようになった。

 

 

齋藤飛鳥卒業コンサート

だけど飛鳥ちゃんは終始「乃木坂46のライブ」にこだわっていた。

 

「乃木坂としては嬉しいけど、卒コンって名前がつくとどっちとも言えない」

齋藤飛鳥の卒コンだけど、今の乃木坂的に私がガツガツしすぎててもそうゆうのあんま好きじゃないなと思った」

「どうやったらこの人たちの未来に繋がりつつ、私もいい旅立ちを出来るのかをすり合わせるのが難しくて」

「まんべんなく皆をしっかりと出してあげたいし、ちゃんと全員と目が合うようにしたい」

 

最後まで飛鳥ちゃんらしいなと思った。

 


僕が数ある飛鳥ちゃんの好きなエピソードの一つに、ラジオで言っていた虹のエピソードがある。

 

『Rainbow』(虹)という言葉が出てくるんですけど、私、『虹』があまり好きではないんです…過大評価されすぎだなと思っていて。
みんな虹が出ると『すごい』って写真を撮るじゃないですか?
 私もキレイだとは思いますけど、評価受けすぎで。だったらもっと『雨』が評価されるべきじゃないですか

 

僕はこの飛鳥ちゃんの言葉は、乃木坂で過ごしてきたからこそ出来た価値観だと思う。


アンダーの悔しさ、選抜の嬉しさ、福神の戸惑い、センターの不安。全てを経験してきた飛鳥ちゃんだからこその価値観だと思う。

 

乃木坂46は決して虹だけがもてはやされるグループではない。


全員の良さを引き出すことで、結果的に何処かに虹がかかることがあるかもしれない。

だけど、虹は結果であって、そこには確かに雨があったことを忘れてはいけない。

齋藤飛鳥卒業コンサートだとしても、その考えは変わらない。

私は虹だ虹だともてはやされるのは得意じゃない。そんな気持ちが伝わってくるような気がした。

 

 

 

僕はこのライブには、大きく三つのテーマがあるように見えた。

一つのメインテーマと、二つの裏テーマ。


メインテーマは「乃木坂46のLIVE」を見せること。

 

前述したように、そして飛鳥ちゃんも終始語っていたように、齋藤飛鳥の冠がついていたとしても、一番大切なのはこれからの乃木坂。

その想いが飛鳥ちゃんがステージにいない中での、これからの乃木坂での披露となったキャラバンは眠らないや、或いは一つ前のブログに書いた、最後のここにはないもので羽根を作らなかったところに繋がったのかもしれない。

どこまでの意図があったのかは分からないけど、大きなテーマとして揺るがずにあったと思う。

 

 


少し気になって「卒業コンサート」について調べてみた。
だけどGoogleにもWikipediaにも、「卒業コンサート」そのものの意味を書いてるページは見つからなかった。

卒業コンサートはアイドルの中においても特殊な文化かもしれない。

例えばこれで芸能界からも引退するのであれば、最後の姿を見せるのはある意味必要なことなのかもしれない。

だけどこれからも芸能界で活動するつもりなら、ファンの前に姿を見せるつもりなら、誰のために、何のために盛大にコンサートを開く必要があるのか。

勿論区切りとして、今まで応援してくれたファンに向けて最後の姿を見せることが大切なのは分かる。

だけどそれを「卒業コンサート」と銘打ってまで、メンバーを巻き込んでまで行うほどのことなのか。そんな遠慮、申し訳なさが垣間見えるのも飛鳥ちゃんらしくて好きだなと思った。

 

 

橋本奈々未と同じように、最敬礼から始まった齋藤飛鳥卒業コンサート


「始まり」をきっと大切な形として見せてくれた飛鳥ちゃんが、「終わり」をどんな風に見せてくれるのか。僕はこの終わり方が凄く大切だと思った。凄く大切に考えて決めていると思った。

 

ななみんは、後ろ手でピースしながら去っていった。芸能活動もしないことを公言していた彼女は、文字通りそのままファンの前から去っていった。

 

そして飛鳥ちゃんは、天使ちゃんとなって登っていって、一番最後、消える間際に「またね」と言った。

 

「サヨナラ」でも「じゃあね」でもなく、「またね」

 

また会おうね。
ここが私の終わりじゃないよ、また会えるよ。

 

その後アンコールが鳴りやまない会場にまた出てきちゃったけど、飛鳥ちゃんが最後に選んだ言葉は「またね」だった。勝手だけど、僕はそれが嬉しかった。

 

 


ではコンサートにはどんな意味を込めたのか。

 

僕は「卒業」と「継承」を裏テーマにしてるのかなと思った。

 


継承を色濃く感じたのは『他の星から』
2日間違うセトリの中で、2日共にやった数少ない楽曲。

 

初日の披露、背中合わせでの曲終わり、顔を合わせられないさくちゃんの後姿に泣いてる事をすぐに察知して頭を撫でる飛鳥ちゃんは我が子を愛でる母のようで。

だけど振り返ったさくちゃんを飛鳥ちゃんはすぐに抱きしめずに、一歩引いて両手を前に出して。その手にさくちゃんが手を合わせた時、ああ、バトンタッチをしたんだなと思った。

そして2日目の他の星からでは、初日に泣いて背中を見せてたさくちゃんが、強い表情をして振り返った。飛鳥ちゃんはその表情を見てさくちゃんを抱きしめた。

これが飛鳥ちゃんの優しさなんだなと思った。

 

最後のスピーチの「恩送り」も、まさに継承の一つだなと思った。飛鳥ちゃんも「私たちも歌で歌ってるな」と言っていて。

歌を受け継いで歌い繋いでいく。

これは他のアーティストにはない特別で素敵な文化だなと思う。

 

そんな想いがアンダーとのAgainstやHard to sayの初披露、或いはオーケストラでのインフルシンクロに繋がってるのかもしれないなと思う。


インフルやシンクロ等の飛鳥ちゃんがセンターではない曲をセンターで披露していたのも、ある意味では恩送りに繋がってるのかもしれない。

 


余談になるけど、乃木坂の中の「僕」は初期の頃と今では性格が変わってきているように思う。
初期の頃の「僕」は好きな子を眺めて、その子の幸せを願うだけだった。
コンバースの紐結ぶ振りして君のことを見ているような、もし君が振り向かなくてもその微笑みを僕は忘れないような子だった。

それが山下がセンターで僕は僕を好きになると歌って、賀喜ちゃんがセンターで好きになってくれと言えるまでになった。

大きな要因は「自信」だと思う。これは「僕」そのものが違う人間になったのではなくて、「僕」に自信がついて性格も変わってきた。そんなイメージを持っている。

そして「僕」に自信がついていってる理由はきっと新期生の加入。

三期生の加入(山センター)で自分を好きになれて、四期生の加入(賀喜センター)で君を後悔させないとまで言えるようになった。

後輩を優しく温かく迎え入れて、活躍を自分のことのように喜ぶ。そんな乃木坂らしさが出てる気がして、僕はこの乃木坂の「僕」に自信がついていってる感じが凄く好きだ。

 

飛鳥ちゃんの卒業で一期生、二期生が全員いなくなるけど、あの頃の「僕」の気持ちは失わずに持っていてほしい。もしかしたらそんな想いもあるのかもしれないなと思った。さすがに深読みだけど。

 

 

一つ目の裏テーマが「継承」

そしてもう一つの裏テーマは「卒業」

 

これは乃木坂46としての齋藤飛鳥の最後の姿をファンにお披露目するという意味ではなくて、飛鳥ちゃん自身が乃木坂から、メンバーから、楽曲から卒業するということ。


冒頭に書いた飛鳥ちゃんの表情。一曲一曲との最後を噛みしめていたように見えたのも、楽曲との卒業をしていたからだと思うようになった。

 

橋本奈々未と同じ最敬礼から始まった卒業コンサート

なんで同じ始め方をしたのか。ただななみんの真似をした、背中を追いかけた、そんな浅い理由ではないと思う。ただのファンサービスでもないと思う。

僕は、飛鳥ちゃんが今まで見てきた卒業の形として、「終わりの始まり方」として、一番美しく見えたからなんじゃないかなと思ってる。

一番美しいと思った始め方を自分もしようと、そう決めてたのかもしれないなと思う。

 

だけどそれだけじゃないと思う。

万歳三唱や一つ目上がりを知ってる飛鳥ちゃんが、形式の理由を調べない筈がないと思った。


「お辞儀 90度」をGoogleで調べると一番上にこんな文面が出てくる。

 

お辞儀の角度が深くなるほど、敬う心が強いため、近づき難い存在となり、お互いの距離は離れます

 

ファンに「またね」と告げた飛鳥ちゃん。

だからこの「お互い」はファンのことを言ってるのではなく、乃木坂との距離を示してるんだろうなと思った。

乃木坂から離れるためにはそれくらい強い意志を示す必要があった。

乃木坂を卒業するためにはそれくらいの覚悟が必要だった。

だから最敬礼から始めたのかもしれないな。

最敬礼の意味を知って、そう思うようになった。

それくらい乃木坂が大きくて大切な場所だったんだろうな。

そう思うようになった。

そして、ああ、飛鳥ちゃんは乃木坂から卒業しようとしていたんだなと思った。

 

 

乃木坂のライブにこだわった飛鳥ちゃんが、もし齋藤飛鳥卒業コンサートをしていたとするなら、2日目の『ありがちな恋愛』から『サヨナラの意味』までの5曲だと思う。

『ありがちな恋愛』

『地球が丸いなら』

『人は夢を二度見る』

『帰り道は遠回りしたくなる』

『サヨナラの意味』

 

 

2018年。20枚目シングルの選抜発表の時、飛鳥ちゃんはこんな言葉を残した。

 

「普通の人が学ぶであろうことを学ばずに来た」

「どうしたらいいのか分からないなって思った時に、その選択の一つが私は本を読むことだった」

 

 

人生に悩んだ時、勿論それだけじゃないだろうけど、どんな時も、飛鳥ちゃんは活字の中に答えを探してきたのかもしれない。

 

秋元康が詩集を出した時に、飛鳥ちゃんは帯コメントを書いてる。

 

秋元康さんの紡ぐ言葉は、雨。

降りしきる言葉の数々が体に染み込む

これに活かされているのだ、と思う。

 

活字に答えを探してきた飛鳥ちゃんは、乃木坂の曲の歌詞の中に答えを探した時もあったと思う。

 

 

この5曲からは、特にそれを感じた。

 

『ありがちな恋愛』

 

前回のブログにも書いたけど、この曲は男女の別れを書いた曲だけど、卒業にもあてはまると思う。

事実飛鳥ちゃんもこの曲について「歌詞も恋人同士の話にも見えるし、メンバー同士に置き換えても当てはまる気がしてずっと好きです」と言っている。

 

愛よりも大切な夢を見つけたのなら

現実はいつだって退屈なものだ

 

愛よりも大切な夢が乃木坂からの卒業だとしたら、君が卒業してしまうことがとても寂しいと、そう言ってるようにも思える。

或いは、乃木坂を卒業したら、みんなと会えない日々はとても寂しいと言ってるようにも見える。

 

ありがちなサヨナラはそれでよかったと言い聞かせて

何回も”もしも”ばかり振り返るだけさ

本当は納得できてないってことだろう

後悔はいつだって意地との綱引き

 

本当は去ってほしくない。

だけど愛よりも大切な夢を見つけたのなら、本音は言えない。

だからそれでよかったと言い聞かせてる。

 

ありがちな恋愛も、乃木坂の「僕」の「つよがり」な一面が出てる曲だと思う。

乃木坂の「僕」はいつだってつよがりだ。

本音は隠して、相手の気持ちを優先する。

卒業なんてしてほしくない。だけど決めた道だから笑顔で送り出す。

或いは、本当はまだ君と一緒にいたい。だけど卒業して一人歩き出す。

 

 

『地球が丸いなら』

 

齋藤飛鳥大園桃子、与田祐樹からなる三人でのユニット曲。

ユニットコーナーには持ってこずに、一人での披露。

 

飛鳥ちゃんの乃木坂人生を振り返った時に、桃子の存在は凄く大きいと思う。

初めて自分のことを先輩として分かりやすく慕ってくれた存在。

だからこそ、桃子の卒業に飛鳥ちゃんは悔いが残ってるんじゃないかなと思う。

 

「桃子が乃木坂も悪くないなって言ったあの時、桃子があの言葉を言った時の気持ちが痛いほどよく分かりました」

「だけどあの時、あんなに近くにいたのに、なんで私の力で乃木坂っていいなって思わせられなかったんだろうってずっと心残りでした」

「力不足な先輩で本当にごめんね」

 

 

僕は今のさくちゃんと飛鳥ちゃんの関係は、桃子との関係がなければなかったと思ってる。

 

もし出会いが偶然なら

さよならも巡り合わせ

抗えるわけないでしょう

ねえ いろいろとあってここに来て

見つめ合う愛しさと悲しさと…

 

この曲を一人で披露したのは、飛鳥ちゃんの中の乃木坂の時の桃子への感情を昇華させようとする意味も込められてるからなのかもなと思った。

 

 

 

『人は夢を二度見る』

 

僕はこの曲は卒業メンバーにも当てはまるなと思っていた。

 

もし僕がある日急に 世界からいなくなったら

どこの誰が泣いてくれるか?考えたこと君もあるだろう? 

 

10年後の自分とか 想像なんてできなかった

10年前の僕からは 今の自分はどう見えるか?

 

この曲を初めて聞いた時、もしかしたらメンバーよりも飛鳥ちゃんに刺さったのかもなと思う。

 

「乃木坂をよろしくね」

と言ってポジションについて曲紹介をする時、涙で声が詰まっていた飛鳥ちゃん。

この曲で乃木坂を卒業していくんだなと思った。

同期よりも大切な存在と言っていた後輩に囲まれて、後輩の曲を一緒に歌うことで、送り出してもらうんだなと思った。

 

久保山下に挟まれてフロントで歌い出す飛鳥ちゃんは、曲の進みと共に徐々に後ろに下がっていった。

1サビでこの曲は久保下がセンターの曲だというかのように一歩後ろに。

間奏でメンバーと共にしゃがむと、2サビ始まりで他のメンバーが立ち上がる中一人だけしゃがんだままいて、「夢をもう一度見ないか?」の歌詞と共に久保下が飛鳥ちゃんに手を差し出して、2人に支えられて立ち上がり、一番後ろに。

最後は最後列より更に一歩後ろに下がって歌っていて。

 

「夢をもう一度見ないか?」を飛鳥ちゃんは歌ってなくて、メンバーが立ち上がるのをただ見ているだけで。久保下が飛鳥ちゃんにそう伝えて立ち上がらせたようにも見えて。

そして最後列より後ろから乃木坂全員を見て、見守って、見届けて、「今ならちゃんと夢を見られる」と言ってるように見えて。

 

乃木坂は私たちが守ります。だから飛鳥さんは新しい場所でもう一度夢を見て下さい

と後輩に言われて、しっかりと後ろから後輩たちの姿を見て、安心して夢を見ようと決意出来た。

 

僕にはそんな物語に見えた。

 

 

『帰り道は遠回りしたくなる』

 

そんな物語を見た後だったから、ここでのこの曲は凄く琴線に触れた。

ライブの中で一番心に響いた曲かもしれない。

 

僕はこの曲が凄く好きで、卒業ソングを抜きにしても乃木坂の曲の中でもかなり好きで、一度この曲についてだけでブログを書いてるくらい好きな曲で。

 

余談になるけど好きな理由を書きたいと思う。

 

この曲は乃木坂の曲の中で唯一、頭と終わりの歌詞が同じだ。

 

「好きだった この場所」

 

好きだったこの場所を振り返って、自分はここから出ていくという決意をして、だけど結局最後にこの場所を好きだということを再認識して曲が終わる。

これが凄く乃木坂の「僕」らしくて、切なくて。最上級のつよがりを歌った曲だと思っていて。

 

この曲は僕がこの場所から出ていく曲だ。

僕は曲の中で何度も決意をする。

 

新しい世界へ

今 行きたい

行きたい

行きたい

行きたい

強くなりたい  

 

何度も「行きたい」と言うことで、自分に言い聞かせてるようにも見える。

それくらい、言い聞かせないとここから離れられない心情が伝わってくる。

二番ではその気持ちがもっと強くなる。

 

このままワンウェイの標識

でも行くんだ

行くんだ

行くんだ

行くんだ

戻れなくても

 

「行きたい」から「行くんだ」と離れる決心を強くする。

そして曲の中ではずっとその理由を歌ってる。

 

いつかきっと違う道選んだ輝く未来のためと 互いに分かるだろう

 

今がどんな眩しくても、未来はもっと眩しいかもしれない

 

「行きたい」から「行くんだ」と自分に言い聞かせて、未来はもっと眩しいはずだと前を向いて、だから君と離れるのは寂しいけどこの場所から旅立つんだと決心して、そんな強い意志を見せているのに、最後の最後、「好きだったこの場所」で曲は終わる。

 

この場所に名残があるなら、それでも離れなければいけないなら、もっと強くこの場所から離れようとすることも出来たと思う。

今はこの場所のことは忘れるくらい、それくらいの気持ちで前を見ようと決意することも出来たと思う。

その方が簡単で、そうする人も沢山いると思う。

だけど「僕」はそうしなかった。

もしかしたらそうしようとしてたのかもしれない。

だけど結局最後にこの場所が好きだと本音を溢す。

 

この曲は西野七瀬の卒業楽曲だけど、凄く飛鳥ちゃんだなと思った。

 

最後の最後までこの場所を好きな気持ちを隠そうともせずに、だからこそ自分が参加してない楽曲も後輩と一緒に披露する。それくらいここが「好きだったこの場所」だから。

 

 

乃木坂46のライブにこだわって、自分自身の卒業は人知れず曲やメンバーとのお別れをしてきたように思えていたから、

人は夢を二度見るの披露で、一番大切な存在の後輩の力を借りて乃木坂から送り出してもらってるように見えていたから、

そんな飛鳥ちゃんの本音が「好きだったこの場所」に出てるように見えて、全部がつよがりに見えて。

それって乃木坂の「僕」で。

やっぱり飛鳥ちゃんは乃木坂の「僕」なんだなって思えて。

だからこの曲が一番心に響いた。

 

 

 

『サヨナラの意味』

 

もうこの曲に関しては散々書いてきたし、今更言うことはないんだけど、橋本奈々未がセンターで歌っていた時は「サヨナラに強くなれ」は残されたメンバーの感情だと思っていた。だけど飛鳥ちゃんがセンターで歌っている時は、自分自身に言ってるように見えた。それはこの前の二曲を観て前述の感情になっていたからだと思う。

 

そしてサヨナラの意味を歌い終わった時、冒頭に書いた優しくて寂し気な表情をしてるなと強く思った。

 

 

以上が、この5曲が齋藤飛鳥卒業コンサートだったのかもしれないなと思った理由です。

 

 

 

長くなってしまったのでそろそろ締めたいと思います。

 

前回のブログでも、そして飛鳥ちゃんが卒業発表した時のブログでも書いたんだけど、僕は齋藤飛鳥が見せてくれる物語がずっと好きで。だけどその物語は僕が勝手に作り出しているもので、飛鳥ちゃんの意図とはかけ離れたところにあるかもしれない。

だからここに書いた全てを合ってるとは思わない。ただ今までもずっと物語を作ってきたから、物語を作るのが好きだったから、最後のライブにも物語を作ってしまって。

だからここに書いたのは完全な「僕の思い込み」になります。

 

卒コンが終わって一か月。未だに余韻は消えないし、この先も消えることはないんだと思う。それは齋藤飛鳥の作ってきた物語があまりにも好きで、その大好きな作者が作ってくれた最後の物語が最後まで本当に良かったから。

 

乃木坂46の齋藤飛鳥はもう見ることは出来なくなってしまったけど、きっとこの先も沢山の物語を見せてくれると思っているし、それを楽しみにしてます。

 

「またね」

 

を信じて。

 

読んで下さってありがとうございました。

ジコチューで行こう

 

お久しぶりです。

5月17.18の二日間にわたり、飛鳥ちゃんの卒コンがありましたね。

僕は二日とも配信で見届けたんですが、二日間の卒コンを見て思ったことを書きたいなと思います。

最近色々なことが起きていて書こうかどうか悩んだんですが、やっぱり飛鳥ちゃんのことは今まで沢山文字にしてきたし、最後もちゃんと文字として残したいなと思ってブログを書いてます。

 

最初に断っておきますが、これはライブを見ての感想というよりも、セトリを見ての感想になります。飛鳥ちゃんがセトリに込めた思い、もしそれがあるならを個人的に勝手に想像しただけの内容になります。

そして、ライブについては殆ど触れてないですw

ですので感想というよりも考察に近いです。それが嫌い、苦手な方はここで読むのをやめていただければ幸いです。

 

 

ーーーーーー

 

前述の通りセトリを通しての感想になるので、時系列があっちこっちに行きます。

まずは2日目のオープニングから。

 

2日目のOverture、飛鳥ちゃんの歴史が詰まったオープニング映像。

一期生最年少加入

選抜回数24回

参加曲楽曲数90曲

シングルセンター5回

 

その映像の途中、飛鳥ちゃんを象徴する文字列が流れてきた。

どうせお前ら

ミュージアム

あしゅりん

いちごミルク

潮騒

ドラム

 

どれも乃木坂を好きで飛鳥ちゃんを知ってるなら一度は耳にしたことのある単語だと思う。

その中に「諦念」の二文字があった。

 

これは2018年の雑誌のインタビューの中で、当時まだ加入して間もない久保、山下に向けてアドバイスはあるか?と聞かれた飛鳥ちゃんが答えた言葉だ。

 

「諦念の気持ちを持つことの大事さ、美しさを知ってほしい」

 

それを受けての2人のリアクションが

「.........。」

 

ピンとこない というよりも、意味が分からなかったんだろうなと思う。

僕も実際にインタビュー記事を読んで、なんか凄いこと言ってるなwくらいに思ってた。だけど強く印象にも残ってた。

「諦念の気持ちを持つ美学」は飛鳥ちゃんが中学生で乃木坂に加入して、活動していく中で身につけた価値観なのかもしれないなと、卒コンの少し前に飛鳥ちゃんの活動を振り返って考えていたから、この文字が目に入った時に息が止まった。

 

今回は、卒コンを振り返りながら、諦念の美学についても考えていきたいなと思います。

 

ーーーーーー

 

2日目一番最後、全ての曲を歌い終え、乃木坂の齋藤飛鳥を全てそこに置いて天使ちゃんになって飛んでいく飛鳥ちゃんは、最後の最後にこんな言葉を残した。

 

「私は今日で卒業なので、明日からは恋とかもするかもしれませんね。お前らの誰かの嫁が飛鳥の嫁になるかもしれませんね。俺の嫁ですね」

 

僕はこれを聞いて凄く驚いた。飛鳥ちゃんが言いそうにない言葉だったからとか、今まで恋愛について触れてこなかったのに突然言ったからとか、それもあるけど、それだけじゃなくて。

僕は飛鳥ちゃんは凄くプロ意識の高い子だと思う。現場の重みを理解している人だと思う。強いプライドを持って仕事をしてる人だと思う。そんな子が、自分の卒業の一番最後の大舞台で例え冗談でも嘘はつかないし、つけないと思う。

だから飛鳥ちゃんの言葉は僕には「私は今日まで恋をしてきませんでしたよ」に聞こえた。飛鳥ちゃんはあの場所で恋愛をしてこなかった証明をしたんだと思った。そこに驚いた。凄い子だなと思った。

今まで沢山のアイドルの卒業を見てきたけど、あんなに堂々と公の場所で「恋愛してこなかった」と言った子は覚えてない。し、それを言えるアイドルはほんとにごくわずかだとも思う。勿論在籍中に恋愛してなかったとしても、加入前に恋愛をしていた子も沢山いる。だけど中学生で乃木坂に入った飛鳥ちゃんはきっとそれもない。

この言葉を残せるのはとんでもないことだと思うし、飛鳥ちゃんのアイドルとしてこの日まで生きてきたという誇りを物凄く感じた。

 

勿論リップサービスだと捉える人も多いと思う。ただ僕にはそう聞こえた。

 

ーーーーーー

 

セトリの話に戻ります。

 

初日は一曲目から

『ここにはないもの』

『ありがちな恋愛』

制服のマネキン

 

2日目は

『ジコチューで行こう』

インフルエンサー

シンクロニシティ

 

そして二日間ともそのあとに全体での

『ハウス!』

『ダンケシェーン』

と続いていく。

 

飛鳥ちゃんは本が好きな人だ。

これは僕の考えだけど、本は「冒頭」と「最後」がとても重要だ。

冒頭と最後が良く出来ていればいるほど、面白いと思うし強く印象に残る。

 

始まりの3曲には飛鳥ちゃんの強い思い入れが隠れているんじゃないかな、僕はそう思った。

その上で考えた時に、

初日は「自分の為に選んだ曲」

2日目は「これからの乃木坂の為に選んだ曲」

なのかもしれないなと思った。

 

自分自身がセンターのジコチューで行こうはドラムを叩きながらの披露。

インフルエンサーシンクロニシティは自分がセンターではない曲。

センターレスの曲にすることで、これからの乃木坂に歌い継いでいってほしい意味もあるのかもなと思った。

そして生演奏での披露。

生演奏でのインフル、シンクロはレコ大受賞を思い出す。

あの場所にはまだいなかったメンバーも同じ経験を与えることで、飛鳥ちゃんがあの日のあの場所に乃木坂を連れて来たようにも見えた。

 

そして一日目。

花道を歩き、センターステージで深くお辞儀。流れ始めるイントロ。

誰が見ても、あの日の橋本奈々未を思い出させる演出。

斎藤飛鳥の乃木坂人生を振り返った時に、橋本奈々未の卒業はとても大きいと思う。その翌日からは三期生が加わっての初めてのライブ披露。あの時期は飛鳥ちゃんにとって転換期でもあったと言えるかもしれない。

そのななみんの卒コンと同じ演出。そこにどんな意味を込めたのかは分からない。無粋な想像をするしかない。ただ、それは見てる人へのパフォーマンスと言うよりも、自分の為だったんだろうなと僕は思った。

 

ここにはないものは自身の卒業曲。乃木坂から卒業して、新しい(ここにはない)世界へ旅立つ曲。

ありがちな恋愛は男女の別れを書いた失恋曲。だけど僕はこの曲の歌詞は卒業するメンバーと残されたメンバーの曲でもあると思ってる。

「愛(乃木坂)よりも大切な夢(卒業)を見つけたのなら 現実(卒業後)はいつだって 退屈(寂しい)なものだ」

飛鳥ちゃんもこの曲の歌詞について「メンバー同士に置き換えても当てはまる気もして」と言っている。

だからこの時のありがちな恋愛は、乃木坂のメンバーとの別れを意味しているように見えた。

 

自身の卒業、メンバーとの別れ。そして制服のマネキン

最初見た時は一日目の三曲目ということもあって、セトリの流れもまだ分からない状態だったし、何か意味が込められてるとは思ってなかった。ただ初期の頃の曲を混ぜてきたなくらいにしか思わなかった。

だけど二日間見終わって、リピート配信を見てる時に違う感情が生まれた。

 

「感情を隠したら制服を着たマネキンだ」

 

制服のマネキンが発売されたのは2012年。この時飛鳥ちゃんは14歳。

発売当時の飛鳥ちゃんにこの歌詞は深く刺さっていたのかもしれないなと思う。

 

スキャンダルとまではいかないが、この曲が出た少しあと、飛鳥ちゃんが共演者とLINEをしていて、その画面が流出した事件が起きてる。

それを受けて飛鳥ちゃんはブログでこんなことを書いてる。

「人間とは難しい!信頼を得ることも誤解を解くことも、たくさん時間が必要です。私たちは青いのだ。もちろん若いという意味もあるけど、青いのです!」

僕はこの頃の乃木坂を知らないし、この騒動がどれほどのものだったのかも知らない。

だけど、共演していた人と友人としてグループラインに参加していて、その画像が出回った。中学生の少女にはそれだけでも大きなトラウマだと思う。そこに恋愛感情がなかったとしても、ネット上にはあることないことが憶測で飛び交い、自身の目にも耳にも入ってくる。それもとんでもない恐怖だと思う。

今の乃木坂とは違い、まだ小さく、人気があるとは言えないグループの、選抜常連でもない立場。自分自身の未来も見えない。そんな状態の少女が攻撃を受けた時の精神は計り知れない。

もしかしたらこの時に、飛鳥ちゃんは自分が置かれている環境の怖さを改めて考えたのかもしれないなと思う。

 

 

飛鳥ちゃんはあまり自分のパーソナルを見せない。メンバーにも家の場所すら教えない。どんな単純な質問も「普通ですよ」「みんなと同じですよ」とはぐらかす。

もしこの時のトラウマが多少なりとも影響してるとするなら、それはとても業が深いと思う。

 

「感情を隠したら制服を着たマネキンだ」

 

読んでくれてる方には少しずつ、僕が考えてる飛鳥ちゃんの諦念の美学が伝わってくれてると思う。

 

ここにはないものは自身の卒業

ありがちな恋愛はメンバーとの別れ

そして制服のマネキンで、マネキンからの脱却を歌ったのかなと

2日間通してみてからのリピート配信を見ながらこう考えていたので、僕は制服のマネキンで泣いてしまった。

 

ーーーーーー

 

諦念の気持ちを持つことは何も恋愛に限った話じゃない。

11年と8か月

それは途方もない年月だ。飛鳥ちゃんはそれだけの年数を乃木坂に奉げてきた。

自分が過ごした11年と8か月を想像してみてほしい。しかも14歳からの一番遊びたい時期を。その期間何をして過ごしてきたか、何をして遊んで、何を食べて、どれだけ夜更かしして。どんな誘惑に負けて、欲に負けて生きて来たか。その中からもしアイドルだったら出来ないことを考えてほしい。

飛鳥ちゃんはその全てをやらずに過ごしてきた。

毎日のスキンケアを怠らず、夜更かしも、食べたい物を我慢した時もあったと思う。

数日間じゃない。11年と8か月。

それは凄いことだし、凄い子だなと改めて思う。

 

ーーーーーー

 

卒コンに戻りますw

 

初日の一番最初の楽曲が『ここにはないもの』

2日目が『ジコチューで行こう』

 

そして、卒コンの本編一番最後が『ここにはないもの』

アンコール一番最後に歌ったのが『ジコチューで行こう』

 

繰り返し言うけど、飛鳥ちゃんは本が好きな子だ。

これも僕の考えだけど、冒頭の話が伏線となってエンディングに繋がる本も面白い。

 

僕はさっき初日を「自分の為に選んだ曲」2日目を「これからの乃木坂の為に選んだ曲」だと言った。

もしこれが伏線になってるなら、これと対比して

本編最後のここにはないものは「これからの乃木坂の為に」

アンコール最後のジコチューは「自分の為に」歌ったのかもしれないと思った。

 

ここにはないものの中でも特徴的で代表的な振り付けが、「素敵なサヨナラを言える」でメンバーが飛鳥ちゃんの羽根になる振りだと思う。

だけど本編最後の方にはその振り付けがなかった。そこまで振り付け通りに踊っていたのに、その振りの直前から全員が横並びとなって歌うフォーメーションに変わった。

そこにどんな意図が隠れてるかは分からない。これも無粋な想像をするしかない。

ただ、最後の最後にあえてそうした。メンバーを自分が旅立つ為の羽根にしなかった。そこには残されたメンバーへの想いが隠れてると僕は思った。

 

 

そして一番最後。飛鳥ちゃんはジコチューで行こうを持ってきた。

 

僕は飛鳥ちゃんの代表曲はSing Outだと思っているし、飛鳥ちゃん自身もとても大切な楽曲だと思ってると思う。

だけど一番最後の曲にしなかった。

 

勿論色々な意味があると思う。単純に楽しく終わらせたかった。しんみりしたくなかった意味もあると思う。

だけどそれだけじゃないと思う。飛鳥ちゃんが集大成として作り上げたセットリストの、1番最後の曲。もっと深い意味が込められてると僕は思った。

 

飛鳥ちゃんは今まで、真夏と絢音ちゃん以外のほぼ全ての同期と2期生、そして大切に気にかけてた後輩の桃子の卒業を見送ってきた。

思春期の飛鳥ちゃんにとって乃木坂は大きな拠り所だったと思う。メンバーの存在を支えに出来たからこそ、制服のマネキンになれてた側面もあると思う。

だけどそんな拠り所である大切なメンバーがどんどんと卒業していく。

生駒ちゃんの卒コンでの飛鳥ちゃんがかけた言葉、桃子の卒業の時にかけた言葉からも分かるように、飛鳥ちゃんは本音を言えばまだ一緒にいたい。卒業してほしくない想いが根底にはある子だと思う。

だけど飛鳥ちゃんがメンバーの卒業についてモバメやブログで何かを言ってるのを見たことがない。

卒業だけじゃない。乃木坂を一番近くで見てきた飛鳥ちゃんは、もしかしたら世間に出回ってるスキャンダルよりも多くの表には出せないメンバーの行動も見てきているかもしれない。

卒業にしても、恋愛にしても、きっと思うことは沢山あったと思う。だけど全部飲み込んで、他のメンバーが「やりたいことをやる」のをずっと見守って、見届けて、見送ってきた。

何があっても、アイドル齋藤飛鳥を全うしてきた。

それは多分僕らが思ってるよりもとんでもないことで、飛鳥ちゃんはそこに大きな誇りを持ってると思う。

アイドル齋藤飛鳥をやりきった。その矜持を、一番最後の歌詞に乗せて最後の舞台に置いてきたのかなと思った。

 

「やりたいことをやれ ジコチューで行こう」

 

ここには単純で簡単な意味だけじゃない。11年と8か月の想いが込められてるんだと思った。

 

だからこそ、最後の最後に「私は今まで恋をしてきませんでしたよ」と証明する言葉を残した、それはある意味では残したかったのかもしれないなとも思った。

 

ーーーーーー

 

支えにしていたメンバーが卒業していく。思春期の飛鳥ちゃんにとってそれは時に受け入れがたい感情もあったかもしれないと思う。

だけどきっとその飛鳥ちゃんを支えてくれたのが今の乃木坂のメンバー。

ななみんの卒コンの次の日から共に活動を始めた三期生、きっと沢山救われてきたんだろうなと思う。だから飛鳥ちゃんは三期生推しなのかもしれないなと思う。

飛鳥ちゃんは誰よりも後輩に感謝して、後輩の未来を応援してるのかもしれないなと思う。

 

そして、飛鳥ちゃんが乃木坂で過ごす中で培った価値観、「諦念の美学」

それはとても大切なものだと思う。だけど手放しにそれを良いものだとは僕は言えない。ファンは彼女達の人生をエンターテイメントとして楽しんでる。そこには残酷な一面もあることを理解しなければいけないと思う。

 

 

 

ーーーーーー

 

最後に。これは全部僕が齋藤飛鳥を通して勝手に見て勝手に作った物語です。

ここに書いてきた全てを合ってると主張する気は全くないし、この考えを押し付けるつもりも一切ない。そんな意味も込めてこれも飛鳥ちゃんが卒コンで選んだ曲の歌詞の一部をここに書いておきたいと思います。

 

 

ーーーーーー

 

そんな深読みをするなんて無駄だ

何も考えていないし

知ったような口振りされちゃ

もう舌を噛んで死にたくなるわ

そんな複雑な女じゃない

先入観勝手に持つなよ

だから隅っこで目立たないように

他人事みたいな外野がいい

 

ーーーーーー

 

 

飛鳥ちゃん卒業おめでとうございます。

 

読んで下さってありがとうございました。

 

ここにはないもの ここにあるもの

 

ここにはないものが披露されてから3日。

アーカイブは今のところ上がる雰囲気はないけれど、幸いなことに僕は完全記憶能力を持っているので披露されてから今日まで脳内で何回聞いたのか分からないくらい再生してきた。

聞くたびに毎回切なくなって、聞けば聞くほど好きになって、曲の良さに気づいて。

 

今ではこの曲は僕の中で乃木坂46の全楽曲の中で一番好きな楽曲になってる。

これは推し補正とか卒業シングルだからとかを抜きにしても、純粋に今まで聞いてきた楽曲の中で一番好きで、多分この先このランキングが変わることはないと思う。

 

不動の一位になったのには明確な理由がある。

 

僕は秋元康プロデュースのアイドルの楽曲は、楽曲の良さに楽曲の持つ背景の物語が乗っかって魅力が増してると思ってる。

純粋な楽曲の良さ、歌詞の良さだけじゃない。その曲のセンター、初選抜、出来事。色々な要素をファンは想いとして乗せて、曲の魅力に肉付けする。

そんなアーティストは他にはいない。いるかもしれないけど僕はあまり知らない。

 

例えばドラマの主題歌がドラマのヒットに合わせて売れることがある。

乃木坂はそのドラマも乃木坂の中で完結させている。

その主題歌をアーティストが歌う時にドラマのシーンが浮かぶかもしれない。

だけど乃木坂の場合は、そのドラマのシーンすら本人たちが登場人物だ。

だから尚更に曲に物語が生まれて、思い入れが出来る。

 

この物語を見せてくれるのが、僕が秋元康Pのアイドルを好きな理由の一つでもある。

 

乃木坂の楽曲には沢山の「僕」が存在する。

サヨナラの意味の「僕」はサヨナラを告げる「君」を送る僕だった。

裸足でSummerの「僕」は行動が予測できない「君」に振り回される僕。

やさしさとはの「僕」はやさしさの答えを出せずに「君」に声をかけられなかった。

 

だけどそれぞれの僕はそれぞれの楽曲に出てくる僕であって、その僕が結びつくことはなかった。

ただ中にはこの曲の僕はこの曲の僕と同じかもしれないとか、似た部分があるとか、楽曲と楽曲を結び付けて考えるオタクもいたと思う。僕もその一人。

僕は勝手に「失いたくないから」の僕は「やさしさとは」の僕と同一人物で同じ世界を生きていると思っていて、以前それをブログにも書いたことがある。

 

だけどこれは勝手に妄想として遊んでいただけで、別に答えを求めていたわけじゃない。

 

ちょっと記憶が曖昧なんだけど確か乃木坂三昧に秋元康が出た時だと思う。

康は「乃木坂における「僕」が1人で動いてる気がする」と言っていた。

 

この時に、それを楽曲に意識して入れ込んできているかどうかは別として、

康の中でも乃木坂における「僕」に対しての認識は確実にあることが分かった。

 

 

そしてここからが僕が「ここにはないもの」を不動の一位として好きな理由になってくるんだけど、この曲は歌詞を見れば分かる通り過去の楽曲のタイトルやフレーズが歌詞に入り込んでいる。これは偶然ではなくて、秋元康が意図して入れてると考えていいと思う。

この曲の「僕」は齋藤飛鳥であることに間違いはないと思う。

だけどこの曲に出てくる僕は飛鳥ちゃんってだけじゃない。

 

この曲の僕は「裸足でSummer」の僕であり、「羽根の記憶」の僕であり、「シンクロニシティ」の僕であり、「サヨナラの意味」の僕だ。

ごめふぃんの僕も、なんぞらの僕もいるかもしれない。

 

もちろんどこまでの意図があって歌詞にいれたかは分からない。ただの言葉遊びだけなのかもしれない。

ただ一つ言えることは、今まではただのオタクの妄想でしかなかった楽曲と楽曲を繋ぐ物語を、作り手である秋元康が作品として提示してきてくれた。

今までは乃木坂の世界にバラバラに存在していた物語を、作り手によって一つの世界線として見せてくれた。

こんなことは今までになかったし、割と凄いことだと思う。

何故ならこの曲の「僕」が今までの乃木坂の「僕」だとしたら、それは乃木坂の僕が乃木坂を離れることを意味するから。

11年間乃木坂の中で育ってきた「僕」の旅立ちを意味する曲だから。

 

飛鳥ちゃんが卒業を発表した日にこんなツイートをした。

 

 

これについて書こうとするとブログ一つ分になるので端折るけど、僕の中で飛鳥ちゃんは乃木坂そのものって印象がある。

一緒にするのは烏滸がましいことは重々承知の上で言わせてもらうと秋元康の中にも少なからず同じような印象があったのかなと。だから齋藤飛鳥の卒業に「乃木坂の僕」の旅立ちを重ねたのかなと思う。

 

とにかく、僕は楽曲の持つ物語を曲の魅力の一つとして考えてるから、今までの楽曲の中で一番物語が詰め込まれてる『ここにはないもの』は僕の好きな乃木坂そのもので。

だから僕はこの曲を全ての楽曲の中で一番好きだし、この先も変わることはないと思う。

 

ーーーー

 

前置きはこれくらいにして(前置きがなげぇ)、僕が『ここにはないもの』の好きなところを語りたい。

 

この曲は齋藤飛鳥の11年を語るには言葉が足りないと思わせるくらいにAメロから言葉が詰め込まれている。

だけどそれだけでは語りつくせない想いを過去の楽曲の歌詞を使うことで伝えてきている。

 

例えば

ホントの空の色を きっと僕はまだ知らない

から『何度目の青空か』が思い浮かべば、「この次の青空はいつなのかわからないだから今空見上げ何かを始めるんだ今日出来ることを」という前向きな決心が感じ取れるし、

 

例えば

「ごめんね これから 出て行かせてくれ」

から『ごめんねFingers crossed』が思い浮かべば、「ごめんね」のひとことの中に「君の幸せをずっと祈ってるよ」という君に向けた想いを感じ取れる。

 

歌詞の一言一言に過去の楽曲の歌詞を使うことで、その過去の楽曲を通しての「僕」の経験が背景に思い浮かぶ。

 

 

そして11年を通しての経験からくる立場の違いも感じ取れる。

 

サヨナラの意味の時は「僕」は「君」を見送る側だった。

そして『ここにはないもの』では「僕」は「君」に見送られる側になった。

だから僕は君の気持ちを痛い程よく分かってる。

 

だから「微笑む瞳のその奥に君は瞬きさえ我慢しながら涙を隠してる」からは、君がどんな感情で微笑んで、僕にばれないように涙を我慢してるのかも分かるってるよって気持ちが伝わってくる。

 

サヨナラの意味の時には残る立場だった。

だから「僕たちの未来」は乃木坂で見る未来だった。

だけど『ここにはないもの』は「まだ見ぬ世界の先」に未来を見ている。

 

シンクロニシティの時は「遠くの幸せ」を願う立場だった。

『ここにはないもの』ではここにある幸せより「遠くのしあわせ」を掴むために行こうとしている。

 

 

 

過去使われた歌詞の一言一言から、その楽曲の物語が思い浮かぶし、それを経験して成長してきた僕の姿が思い浮かぶ。

 

そして後ろ髪を引かれたって君に甘えたりはしないようにいつも前を向こう」からは見送られる立場になった僕の、サヨナラの意味の君のように前を向いて、振り向かず、後ろ手でピースしながら歩き出す姿が思い浮かぶ。

 

こんなにも物語が浮かぶ楽曲は今までになかった。

 

歌詞やタイトルをリンクさせてくれたから、歌詞が一字一句同じじゃなくても過去の楽曲をイメージしてるのかなと思うことも出来る。

 

例えばCメロの

「でも空がどれくらい広いとかどれくらい高いかは見上げて初めてわかる」

からは羽根の記憶の「空は何処までもある持て余すくらいに鳥たちは自分から籠に入らない」が思い浮かぶ。

 

秋元康は楽曲の目線へのこだわりを大事にしてる人だと思ってる。その曲が誰目線の曲なのか。センター目線なのか、ファン目線なのか、グループ目線なのか。

 

『ここにはないもの』はここまで書いてきたように飛鳥ちゃん目線であり、乃木坂の僕目線だ。

だけどこのCメロはそうじゃない。

何度目の青空か、羽根の記憶。

康は時々、歌詞の中に康目線のメッセージを紛れさせる時がある。

Cメロは康目線の歌詞だ。その歌詞が羽根の記憶とリンクした。

だから僕にはCメロは「まだ眠る可能性無限大だ」というメッセージに聞こえた。

 

 

色々と書いてきたけど、純粋に歌詞も好きだ。

「寂しさよ 語りかけるな心が折れそうになる人間は誰もみんな孤独に弱い生き物だ」

この曲の僕はずっと「つよがり」だ。

これも乃木坂の「僕」だ。

寂しさも、悲しみも、決して表には出さない。

サヨナラの意味の僕も、サヨナラ Stay with meの僕も、ありがちな恋愛の僕も。

別れ際いつも強がっている。

 

「悲しみよ 泣き出すなよ強がりとバしてしまう」

『ここにはないもの』の僕は自分のつよがりを認めている。

いつもは出さない僕の本音が聞こえた気がして、そこも好きだ。

 

 

色々書いてきたけど、多分まだ全然書き足りないし、伝えきれない語彙力の無さが情けないけど、とにかく本当に僕は『ここにはないもの』が好きです。

 

 

 

 

そして最後に。

乃木坂の僕が旅立ってしまうということは、今後残されたメンバーはどうなるのか。

全く新しい乃木坂として活動していくのか。

僕はそうではないと思う。

 

設楽さんが飛鳥ちゃんの卒業を受けてラジオでこんなことを言っていた。

「歌舞伎とかの伝統文化も名前を襲名して続けていく」

 

確かにな、その通りだなと思った。

 

ここ最近の表題曲の「僕」は今までの乃木坂の「僕」とは少し違う印象があったし、そう感じるファンも多かったと思う。

乃木坂が変わっていく中で、乃木坂の「僕」も変わっていく。

じゃぁ今までの僕がいなくなるのかと言われたらそうじゃない。

今までの僕は引き継いで、その上に新しい僕も連れて行く。

 

物語は続いて行く。途切れることはない。

 

これから乃木坂ちゃんがシンクロニシティを披露するたびに、「遠くの幸せ願う」たびに、それは『ここにはないもの』で旅立った僕の「遠くの幸せ」を願ってるんだろうなと思える。それって凄く素敵だなって思わない?僕は素敵だと思う。

移ろいゆく季節のなかで

 

僕が乃木坂を知ったのは何度目の青空かの頃。

厳密にいえば存在は知ってたけど初めて立ち止まって乃木坂を見たのがこの頃。

この頃自分の人生の中でとてもしんどいことがあって、この曲に少しだけ救われた。それで興味を持っていくちゃんの過去動画を追いかけてた。

この時飛鳥ちゃんはアンダーで、存在は知らない。

飛鳥ちゃんを知ったのは次の曲の命は美しい。

可愛い子だな、どうしてこんなに可愛いのに選抜じゃなかったんだろうなと思ったのを今でも覚えてる。

推しという概念で考えるなら、飛鳥ちゃん推しになったのは太陽ノックを挟んでその次の今、話したい誰かがいる

この曲で初めて福神になって、はしっこでシーソーをしてる姿が可愛くて、凄く印象的だった。

 

僕は推し活というほどのことをほとんどしてないし、オタクと言うのはおこがましい部分もあると思っているけど、もし推しと言わせてもらうなら、この時から今まで、一度もぶれずに飛鳥ちゃん推しだった。

 

オタクに限らず人はドキュメンタリーを好む傾向にあると思う。それは表舞台で活躍する人、物、作品。その裏側を知れた方がよりその作品を好きになれるからだと思う。

 

僕が飛鳥ちゃんを好きになってから、飛鳥ちゃんは色々な経験をして、その多くの部分をファンにも見せてくれた。

初めて福神になって、初めてセンターになって、初めてソロ曲をもらって。

舞台に立って、ドラマに出て、映画に出て。

大好きな人達が卒業を発表して、乃木坂から離れて。新しく後輩が出来て、上手くいかなくて悩んで、後輩を抱きしめて、そばにいるようになって。

 

僕は齋藤飛鳥の中に物語を見ていたんだと思う。

齋藤飛鳥を通じて観る物語が好きだったんだと思う。

 

思春期から大人へ。多感な年齢の11年。色々なものが、ことが変化していく。

価値観も変われば考え方も変わる。乃木坂での活動への比重や向き合い方も変わる。

その変化すら、とても魅力的だと思えた。

 

飛鳥ちゃんの言葉の一言一言に物語を感じた。

ダンス、仕草、表情に物語を感じた。

後輩との接し方に物語を感じた。

そしてその物語は、乃木坂によって構成されていた。

 

乃木どこが始まった頃、各メンバーが誕生月を迎えた時に一人一人をフューチャーする「乃木どこ生誕祭」というコーナーがあった。

飛鳥ちゃんはその生誕祭の時に、「乃木坂に入って尊敬するメンバーが出来た。それは乃木坂46のメンバーのみんな」と言っていた。

多分飛鳥ちゃんは尊敬する同期のお姉さんメンバーの背中を見ながら、吸収しながら成長してきたんだろうなと思う。

飛鳥ちゃんの人格形成にも大きく影響を与えてるんだろうなと思う。

 

だから飛鳥ちゃんの言葉には乃木坂を感じるし、それが好きだった。

飛鳥ちゃんが時々考えさせられるようなことを言ったら、その背景には乃木坂での出来事が思い浮かぶし、時にはメンバーが思い浮かぶ。それが好きだった。

 

 

飛鳥ちゃんの11年は、変化と向き合う11年だったのかなとも思う。

飛鳥ちゃんが人と深くかかわらないのは、いつかその人が去ることを何度も経験してきた一面もあるんじゃないかなと思う。

憶測でしかないけど、誰よりも変化を嫌って、誰よりも変化を受け入れてきた子なのかもしれないと思ってる。

 

沢山ある飛鳥ちゃんのエピソードの中で僕が一番好きなのは、工事中での「一人を目指せ」というメンバーがそれぞれ一人になるであろう質問をして、トータライザーを使って答えるって企画。

飛鳥ちゃんの質問は

 

「憧れのメンバーが一回も変わってない」

 

だった。

 

凄く飛鳥ちゃんらしいなと思った。

一人を目指すのが目的だから、一人にしかならないような質問をしなきゃいけない。

表向きはどうせ一人くらいしかいないんでしょって、実際そう思ってるかもしれないけど、だけど多分飛鳥ちゃんは心の奥底ではこの質問の答えが複数人いたらいいなってことを望んでるんだろうなって。実際に答えが7人と出た時の飛鳥ちゃんは少し嬉しそうに見えた。

 

人の心は季節のように変わっていく。それは理解して、受け入れてる。

だけどどこかで変わらないものを望んでいる。

不安からくるものなのかもしれない。安心したいからなのかもしれない。

もしこれが大切な人が去っていく悲しい経験から培われた価値観だとしたらそれを好きだと言ってしまうのは良くないことなのかもしれない。

だけどそんな価値観と抗いながら同期と接し、後輩と接してるのかなと思ったら尚更愛しく思えた。

バレンタイン企画の時、さくちゃんに「卒業生含め」と言う必要がない言葉までぽろっと出てしまったところに、愛しさを感じた。

 

 

11年間、飛鳥ちゃんはファンに色々なものを見せてくれた。

だけどそれは想像できないほどの負担でもあったんだろうなと思う。

 

だから卒業は凄く寂しいけど、感謝しかないなとも思ってる。

 

これからどんな活動をしていくのかは分からないし、表舞台で見ることはなくなってしまうのかもしれない。

ただ、移ろいゆく季節の中で、これからの飛鳥ちゃんの人生に、決して変わらないものが沢山手に入るといいなって思っています。

やさしさと覚悟

 

最近乃木坂楽曲ソートがFFの間で少し話題になってて実際にやった人がブログやノートに上げていて僕もやりたいなと思ってやってみたのですが、あまりに長すぎて途中で挫折しました。


だからせめて僕の中で最近好きな楽曲ランキング絶賛急上昇中の「僕が手を叩く方へ」の個人的好きな所を書きたくなって深夜にブログを開いてます。

 

酔った勢いで書いてるから文章が乱雑になるであろうことはどうかご了承くださいと保険で最初に書いておきますw

 

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この曲をちゃんと聞いたのは配信ライブだったんだけど、凄く感動した。
伴奏が止まって会場全体がクラップする所とかは実際に会場で体験してる人は配信では分からない感動を味わってるんだろうなと思った。

 

この曲はメロディーも歌詞も三期生が歌っているという点も含めてほんとに全部好きなんだけどその中でも特に僕が好きなところがサビの最後。

 

『何を言いたいかっていうと君は一人じゃない 頑張れ』

 

この歌詞が良すぎて。この歌詞を歌ってる姿に心が打たれて泣いた。

何を良かったと思ったのか。何に心を打たれたのか。それを書きたいと思います。

 

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「頑張れ」という言葉は見方を変えると難しい言葉だと思う。


よくうつ病の人には頑張れと言ってはいけないとか、頑張ってる人に頑張れと言うのは違うとかという意見を目にする。
確かにその意見にも一理あると思う。


「頑張れ」というのはある意味では無責任にもとれるかもしれない。
配慮の足りない言葉と捉えられる可能性のある言葉かもしれない。
だからこの言葉に価値を持たせるのは難しいことだと思う。

 

だけど僕はこの曲の中でこの歌詞が一番素敵な部分だと思ってるし、一番好きな部分でもある。

 

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以前、このブログに「のにの話」を書いた。
人と人との関係は「主語を自分にすること」が大切だという内容だ。

それは友人でも、恋人でも、職場でも言える。

 

例えば結婚をして、毎朝早く起きて夫の弁当を作る。
それを「夫のために」と主語を相手にしてしまうと、いつかはその関係がこじれてくる。


主語を相手にしているとそれはいずれ「のに」の関係に変わる。
夫のために早起きしていた「のに」と。


そうではなくて「自分が」作りたい「から」毎朝早起きしてる。
常に主語を自分に持ってくることが大切だと。

 

或いはそれはファンとアイドルとの関係でも言えると思う。
「応援してるアイドルの為に」CDを買うんじゃなくて「自分が応援してるアイドルに喜んで欲しいから」CDを買う。

 

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主語を自分に持ってくることの大切さ。それはどんなことにも言えると思う。


例えば人を信用するということ。
「この人は裏切らない」と思うから信用する。これは間違ってると僕は思う。
これは主語を相手にした、相手に任せた判断だ。
そうではなくて、これも主語を自分にすることが大切だと思う。


「この人は裏切らない」のではなくて、「自分が信用したのだからこの人が裏切ったとしてもそれも受け入れる」
その覚悟が人を信用するということだと思う。

 

よくお金は返してもらえると信用して貸すのではなくて、戻ってこなくても仕方ないと思える人に貸せと言われるけど、その通りだと思う。

 

 

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「頑張れ」という言葉は主語が相手だ。
だからある意味では不誠実に感じる側面があるかもしれない。

 

だけどこの曲の僕はそうじゃない。
「僕が手を叩く方へ君は歩き続ければいい」と僕は言う。

 

この曲は君を頑張れと応援してるように聞こえるけど、実はそうではなくて、
『君が頑張るならその間僕はずっと手を叩き続けるよ』と伝えてくれてる曲だと思う。

 

この曲の僕の主語はずっと「僕」だ。

 

人と関わり続けることは難しくて大変なことだと思う。
だけど僕は「強く手を叩きながら僕はここから動かないよ」と言う。

 

こんなに優しくて、頼もしくて、誠実な「頑張れ」って言葉はないと思った。

 

この曲の僕は強い言葉で君を導く。

 

僕が手を叩いてる方が正解の道だよと。だからこっちにおいでと。

 

この言葉には、自分が立ってる場所を正解の場所にし続けなければいけないという強い意志も込められてると思う。君に頑張れと伝えながら、この僕は君以上に影でずっと頑張り続けるつもりでいる。

 

この曲の「頑張れ」にはそんな僕の覚悟が詰まってると思った。

 

君に頑張れと伝えるんじゃない。

君が頑張るなら僕は手を叩き続けるよと伝える。

 

物凄くやさしい頑張れって言葉だなと思って、そう思ったら聞きながら泣いてた。

 

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そして、この「頑張れ」を三期生が歌ってるのもこの曲が好きな理由の一つ。

 

乃木坂はアイドルグループの中で一番世代交代が上手くいってるグループだと思う。


その要因はいくつかあるんだろうけど、その中でも世代交代は線ではっきりと区切られたものではなくて、グラデーションのように少しずつ変化させていってるという印象がある。


その中でこの曲にははっきりと世代交代が感じられる。これからの乃木坂は三期生が引っ張っていくんだと。そんな意志が伝わる。こんな楽曲は今まであまり無かったと思う。

 

 

先述したように「頑張れ」って言葉に価値を持たせるのは難しい。
だから乃木坂の楽曲にも、「自分が」頑張る曲や「一緒に」頑張る曲はあるけど、はっきりと自分は応援してる立場で「相手」に頑張れと伝えてくる曲はあまり思い浮かばない。

 

多分、この楽曲の「君」は後輩メンバーやこれからの乃木坂を見てくれるファンだと思う。

 

世代交代をはっきりと意識させる楽曲の中で、僕は手を叩き続けるよと、ここを正解の場所にし続けるよという想いを込めて三期生が「頑張れ」と歌う。

 

勿論歌詞は秋元康が書いていて彼女達の意志がそこに全て反映されてるわけではない。
だけどそれを差し置いても彼女達のパフォーマンスからはその意志が伝わってくるような気がした。

 

乃木坂が大きくなればなるほどに後から入ったメンバーは壁の高さに重圧も感じることもあると思う。
だけど乃木坂で過ごした歳月が、経験が、その壁を乗り越えてこれからの乃木坂を引っ張っていく、私たちは手を叩き続けるよという覚悟を込めた「頑張れ」に聞こえた。

 

僕にはそう見えた。
だから楽曲の背景に物語が見えて感動した。

 

これが僕が「僕が手を叩く方へ」を好きな理由です。

もうね、何度聞いても泣きそうになるのよ。

ほんとに好き。

 

この曲だけに限らず、僕は物語が感じ取れる曲が好きなんだなと思う。

 


きっと会場で直接見た人には配信では分かりきらない色々な感情があるだろうし、在宅が何言ってるんだと思う人もいるだろうけど、この曲が大好きな曲になって大好きになった理由を書きたくなったので酔っ払いの戯言だと思って多めに見てください。

 

 

あともし楽曲ソートを最後までやったら上位30曲この熱量で語るのは無理すぎるのでやっぱりやめますw


わかんないけどもし最後までやりきったら上位は「泣いたっていいじゃないか」「ないものねだり」「今話したい誰かがいる」「あの日僕は咄嗟に嘘をついた」「サヨナラ Stay with me」「Tender days」「ありがちな恋愛」あたりのありふれた結果になるんだろうな

 

以上になります。読んで下さってありがとうございました。

『価値あるもの』を聞いて思ったもう一つの「僕」の物語。

 

お久しぶりです。

乃木坂46の29枚目シングル『actualy...』が配信開始になりましたね。

今回のシングルは良くも悪くも多くの話題と注目を浴びることになりました。

それはさておいて、今回は収録曲『価値あるもの』を聞いて思った感想を書きたいなと思って久しぶりにブログを開いてみました。

最近は言いたいことはだいたいふせったーに書いてしまうのでブログを書くことも無かったんですが、久しぶりにちゃんと形として残したいなと思ったので今回はブログに書きたいなと思った次第です。

 

ーーー

 

「価値あるもの」は、久保史緒里、阪口珠美中村麗乃、遠藤さくら、賀喜遥香金川紗耶、北川悠理、佐藤璃果の今年新成人を迎えた8人からなる、“新・華の2001年組”のユニット曲。

新・華の2001年組は、2015年に西野七瀬桜井玲香ら7人が成人した際の「華の94年組」にリスペクトを込めたネーミングであり、華の94年組の「遠回りの愛情」に続く、世代ユニット曲。10回目の成人式というグループにとっての節目、さらに8人の「今度は我々が乃木坂46を盛り上げていけたら」という思いが乗ったまさに“プレミアム”な楽曲と言えよう。

 

realsoundより抜粋

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そしてこの楽曲を初めて聞いた時の僕の感想がこれです。

 

 

乃木坂の楽曲にはよく「君」と「僕」が登場します。

そして僕は君に恋心を抱いていて、だけどその想いを君に伝えることのない、或いはその後の結果がどうなったのかが分からない曲が多いと思います。

片想いのまま決して実ることのない、それでも相手を想い続ける。これってアイドルとファンの関係性に似てるなって思います。だから彼女達が歌うことで歌詞に説得力が乗っかり、楽曲に厚みが出てるんだと、秋元康の心意は分かりませんが、僕は勝手にそう思っています。

『価値あるもの』に出てくる僕もまさにそんな乃木坂の楽曲によく出てくる「僕」だなと思いました。そう思って書いたのが上記のツイートになります。

 

楽曲に僕目線の歌詞が多いことについて秋元康は乃木坂三昧でこんな言葉を残しています。

「乃木坂の中にいる僕が一人で動いている気もする。ファンの皆さんがこれとこれはこの曲のアンサーソングじゃないか、この曲とこの曲は繋がってるとか。僕の中に乃木坂における僕ってのはどこかにいるんじゃないかなって気はする」

 

乃木坂の歴史の中で、彼女達の歌によって、或いはファンの人気によって、乃木坂の中の僕が創られていった。そしてそれに同調するように、創り手である秋元康の中でも乃木坂の僕が育っていった。

そんな印象を受けます。

 

秋元康が語っていたように、僕も乃木坂の中にいる僕を勝手に動かしてみたいなと思います。

 

結論から言うと、『価値あるもの』は『やさしさとは』のアンサーソングなんじゃないかなと、この曲を聞いていくうちにそう考えるようになりました。

 

何故そう考えるようになったかを書く前に、まずは僕が『やさしさとは』の歌詞をどう解釈しているかに軽く触れたいと思います。

 

この楽曲にも「僕」と「君」が登場します。

そしてこの曲の歌詞は簡単にいうと「僕が片思いしている君が他の人に恋をして、その一部始終を眺めていた僕の、自分の思いを告げることなく終わった恋物語だと思っています。何故そう思っているのかは以前ブログに書いたのでもしよければこちらを読んでみて下さい(宣伝)

 

つまりやさしさとはも価値あるもの同様に「君」を好きだけど好きな気持ちは伝えることのなかった「僕」の物語になります。

ただこれだけだとアンサーソングだと思った理由までには至りません。この二つの楽曲には色々な共通点があるなと思います。

何故アンサーソングだと思ったかの理由を書いていく中で二曲の共通点も書いていきたいなと思います。

 

『やさしさとは』は歌声に特徴のあるメンバーで構成されたユニット楽曲になります。『価値あるもの』同様に明確な理由を元に集められたメンバーによる比較的人数が多いユニット楽曲です。

歌唱メンバーが卒業していく中で、人数が減りながらもオリメンを大事にして歌われてきた曲としても有名です。まだ分かりませんが、価値あるものもそんな楽曲になるんじゃないかなと思ってます。

 

少し話がそれますが、「歌い継ぐ」

これは他の歌手、アーティストにはないアイドルだけの特色だと思います。

アイドルの曲は単純な楽曲の良さだけではなく、その曲のセンター、初選抜、初フロント等、色々なメンバーの物語が曲そのものに乗っかります。その「楽曲に乗っかった物語」が楽曲を育てていく。そして、その物語の登場人物が卒業した時に、新たな登場人物が『歌い継ぐ』ことによってまた新しい物語が生まれる。

それを見るのも、アイドルを楽しむ一つの要素であり、魅力だと思います。

 

そんな中で、乃木坂の歴史と共に「乃木坂の僕」も育っていった。

楽曲が違って、歌ってるメンバーが違ったら、それは全く別の曲です。それなのに同じ「僕」がそこに存在している。それって凄く面白いなって思います。

 

話を戻します。

『価値あるもの』の「僕」と『やさしさとは』の「僕」は、実は価値観が大きく違います。

『価値あるもの』の僕はとても前向きです。君が幸せなら僕はそれが一番嬉しい。ただ君を想うことが価値のあることと気づいたと。曲調も明るく、好きな人に出会えた幸せが伝わってきます。

『やさしさとは』の僕からは君への未練や後悔を感じます。声をかけないまま君を見送る、その方が僕らはしあわせだ。思い出すのはやめて孤独を選ぼうと。曲調からも寂しさが伝わります。

 

では何故この二曲の僕が同じ僕で、アンサーソングだと思ったのか。

 

個人的な感情になってしまうのですが、僕はオリメンを凄く大切な存在だと思ってます。

乃木坂46は一期生が作り、二期生、三期生、四期生が一期生が作った乃木坂の色に染まりながら、お互いが化学反応を起こすことで魅力が増して大きくなっていったグループだと思ってます。

 

『やさしさとは』が収録されているのは6thシングル、一期生が二期生の堀未央奈をセンターとして迎え入れた初めてのシングルです。やさしさとはを歌うのは全員一期生。この楽曲に出てくる「僕」と同じように、一期生にもまだ悩みや迷いが多かった頃だと思います。もしかしたら初めて出来る後輩に対してやさしさとはなんなのかを考える時もあったのかもしれません。それは分かりませんが。

 

『価値あるもの』が収録されているのは29枚目シングル。6枚目から楽曲もメンバーも沢山の物語を重ねて、楽曲に出てくる「僕」に変化が出てきてもおかしくないなと思います。歌唱メンバーは三、四期生。乃木坂になっていった子達です。そして、『やさしさとは』歌唱メンバーの最後の一人、生田絵梨花が卒業してから初めてのシングル曲になります。

『やさしさとは』は初めて二期生を迎え入れたシングルに収録されたユニット曲で、『価値あるもの』は最後の歌唱メンバーの生田絵梨花が卒業してから最初のシングルに収録された新ユニット曲

 

勿論歌ってるメンバーは全員違います。だけどもしこの二曲の僕が同じ僕だとしたら、声をかけないまま君を見送るだけだった僕が、君は背中向けたままで何もかわらなくていいんだって思えるようになって、答えがみつからないままただ歩くしかなかった僕が、愛せる人をただ想うことが価値あることと気づいた。それを進化と呼ぶかは分かりませんが、あの時出せなかった答えの一つに辿りつけたんじゃないかなって。

それを新しく乃木坂になっていった子達が歌うことが「僕」の物語の一つの形だとしたら、彼女達自身が乃木坂に入ってこんなにも成長出来たんだってことを「僕」を通して伝えてきてるようにも思えて、一つの答えを見せてくれているようにも見えて素敵だなって。

季節感も『やさしさとは』は冬で『価値あるもの』は春のイメージがあります。

季節を越えることで「僕」にも変化があったのかなとも感じとれます。

 

どちらも同じ「成就しない片想い」をつづった曲ですが、乃木坂の成長と共に僕の心境にも変化が出てきて、それを「歌い継ぐ」ことで伝えてるとしたら、それもアイドルにしか出せない面白さであり魅力の一つだなって。勿論これは秋元康の意図ではなくて僕が勝手に作り出した物語ですが。

 

これが僕が『価値あるもの』が『やさしさとは』のアンサーソングだなと思った理由です。

 

歌詞の考察とか全然なくてただのオタクのメタ的思考満載の妄想ですが、楽しみの一つと受け取ってもらえたら幸いです。

久しぶりのブログでまとまりもなく読みにくい文章だったと思いますが、読んで下さってありがとうございました。

アイドルと恋愛禁止

 

アイドルの仕事と言えば何を思い浮かべるだろうか。

ファンに笑顔を与える。歌やダンスで魅了する。努力、涙、感謝、勇気。

だけどこれらは付加価値に過ぎない。

 

例えば料理人の仕事と言えば「美味しい」を提供することだし、芸人の仕事は「面白い」、ミュージシャンの仕事は「素敵な曲、素敵な歌声」だと思う。

料理人の接客の良さも、芸人のビジュアルの良さも、歌手のトークの上手さも、それぞれ魅力ではあるけど、これらはあくまで大前提がある上での付加価値に過ぎない。

 

ではアイドルの仕事は何かというと、僕は「かわいい」だと思う。

様々な付加価値的な魅力も、全ては大前提に「かわいい」があってこそ成立している。

 

極端なことを言えば例えばプライベートで彼氏を作っていても、極論人を殺していても、かわいきゃアイドルとしての仕事は成立している。

 

料理人が裏でとてつもないパワハラを働いていても、芸人が闇営業をしていても、歌手が薬物をやっていても、美味しい、面白い、いい曲を提供していれば仕事は成り立っている。と僕は思ってる。

 

星野みなみのスキャンダルが発覚した時。僕のツイッターのTLには各々の色々な意見が見られたけど、その中には撮られた写真のかわいさを言ってる人が少なからずいた。

大前提で「かわいい」が仕事だと思っている僕からしてみると、これは煽りや皮肉抜きに素直に凄いことだなと思った。流石みなみちゃん、こんな時にまで凄く良い仕事してるなと。

 

じゃぁお前は恋愛を容認してんのかと言われたらそうゆうわけじゃない。

疑似恋愛をオプションの一つにした上で商売をしてきているのだから、例え運営が恋愛禁止を明言していなかったとしても、運営(売り手)にもアイドル(商品)にもファン(買い手)にも『恋愛禁止』には暗黙の信頼があるはずで、それを破った時には信頼が崩れることもイメージが変わることも理解していなければならない。

 

アイドルは特殊な職業だと思う。彼女達はファンからの支えの対価として、自分自身を捧げる。容姿、スタイル、言葉遣いだけじゃない。生活習慣から思想、感情までもファンはうるさく指摘する。

10代から20代の少女が、仕事だけではなくプライベートまで管理されて恋愛は許されないなんて、人権侵害とも言えるんじゃないかなと僕は思う。

だけど、恋愛をすることで信頼は崩れ、イメージも崩れることは事実。それはアイドル活動を続けていく上で彼女達にとって大きなダメージだと思う。

 

だから僕は「恋愛はしちゃいけない」ではなくて、「(得るものと失うものを天秤にかけた時に失うものの方が大きいから)恋愛はしない方がいい」と思っている。

だけどこれは事情を知らない外部の人間の憶測であって、もしかしたら失うものとの天秤にかけた時にそれでもかまわないと思って恋愛をしたのかもしれないし、失うものがあってもそれ以上に得るものの方が多いと考えて恋愛をしたのかもしれない。

だからスキャンダルが発覚すると、「恋愛禁止のルールを破って許せない」よりも「恋愛しちゃったんだ」という気持ちになるし、そこから先は当事者の意志の問題だから責める感情にもならない。

だけど裏切られたと感じるファンの気持ちも、許せない、もう応援出来ないと思う感情も仕方がないものだと思う。

 

これらを踏まえた上で誤解を恐れずに言わせてもらうと、彼女はそんなに悪いことをしたのか?と思う。

 

乃木坂は今や過去存在したアイドルグループの中で一番ファンが多いグループだと思う。その一期生、10年間在籍していた彼女が起こしたスキャンダルは、アイドルが好きな人だけじゃなくても沢山の人が多少の注目と共に知る事実となった。今後彼女がどんな人生を歩んでいこうとしているのかは分からないけど、芸能界に残るならスキャンダルのイメージは永遠に消えないし、一般人になったとしてもそのイメージを持つ人と関わっていかなければいけない。今まで10年間一緒に活動してきた仲間との関係も変わってしまうかもしれない。

 

以前、無期懲役で刑務所に入っている囚人のドキュメンタリーを見たことがある。彼らは顔を隠し、声も変えた状態でインタビューに答えていた。

無期懲役を言い渡された囚人ですら、プライバシーを守られている。

いずれ復帰するかもしれない社会の中で円滑に生きて行けるように配慮されている。

 

彼女は別に犯罪を犯したわけじゃない。一人の少女がただ恋愛をしただけで、これから先一生そのイメージを背負って生きていかなければいけない。

 

その上でもう一度言わせてもらうと、それ以上責められるほど悪いことをしたのか?と思う。

 

人間ってのは恐ろしい生き物で、自分が正しいと思っていればいるほど、正しくないと思う人を傷つけても心を痛めない。正義を武器にすれば何をしてもいいと思っている。

その結果沢山の悲しい出来事がSNS上で起きているし、表に出ないだけで死にたいほど辛い思いをした人はこの数倍はいるのにも関わらず、同じことを繰り返す。

そして何かが起きた後に言う。「自分は悪くない」と。

 

これは別に彼女を許せないと思ってる人に対してもう許せと言ってるわけじゃない。

裏切られたと思う感情や、許せないと思う感情を抱くのは自由だと思う。だけどそれと彼女を傷つける発言は全く違う。これを同じだと思ってる人が凄く多いなと思う。

 

以前、松村沙友里がスキャンダルを起こした後の選抜発表で、日村さんが彼女に「もういいでしょ。もう充分痛い目は受けたし」と言っていた。

僕もそう思う。発覚した時点で、もう充分報いは受けている。

 

確実にファンは減るだろうし、ファンを裏切ったというイメージは消えない。謝って反省したから元に戻るかといったら決してそうではない。

前にもブログで書いたけど、破れた本はテープで修復して読むようには出来るけど、元の綺麗な本に戻すことは出来ない。今後の活動でどれだけテープで修復したとしても、元通りには戻らない。

それで充分だと思う。それ以上の責めは何も生まない。

 

アイドルは、直接会えたり、気持ちを伝えたり、身近に感じることが出来るけど、ファンは決して当事者ではないことを忘れてはいけないと思う。

ファンはアイドルにいくら使おうが、どれだけの時間をかけて応援していようが、彼女の人生に踏み入る資格はない。

 

料理人がパワハラしてることが発覚してそれが許せないなら、その店にはいかなければいい。闇営業が許せないなら、その芸人が出てる番組は見なければいい。薬物が許せないなら、そのアーティストの曲は聞かなければいい。

それで充分だし、それ以上のことはするべきではないと思う。

 

アイドルの仕事は「かわいい」だと思う。

どうか、アイドルを好きなファンが、アイドルから仕事を奪うことがないといいなと思う。